生命の樹イェソド。タロット小アルカナの9。

イェソドは生命の樹での中央の柱にある。下にはマルクト、上にはテファレトが配置されていて、西洋占星術での月に該当するとされている。マルクトは地球なので、生命の樹の高さから言っても、これが地球にとって天からの最終通告のようなものになる。
 
ただしホドからマルクト、あるいはネツァクからマルクトのパスもそれぞれ存在しているため、実際のところマルクトに直接的に触れているのはホドとネツァク、そしてイェソドになる。ホドあるいはネツァクからのパスが発達していれば、マルクトに到達するためにはわざわざイェソドを介さなくともいいと思える向きはあるが、とはいえイェソドは生命の樹の中央の柱に位置しているため、すっきりとわかりやすい。そもそもマルクトでさえ中央の柱にあるわけだから、ホドの左側、あるいはネツァクの右側の働きより、イェソドの方がずっとストレートだ。西洋占星術で月は、人間の感情や佇まい、日常などを司っている。つまりとても身近な天体であり、ご存じの通り新月や満月での感情の起伏は枚挙にいとまがないばかりか、月の引力が引き起こす潮の満ち引きまで、その影響は非常に具体的だ。
そうなるとイェソドも非常にわかりやすい。
 
9の数字は大アルカナであれば隠者のカードだ。高い精神性を持ち続け、現世におけるあらゆる困難を達観しながら、ほの暗い明かりを各家庭に灯して回る。隠者は『ここではないどこか』という目的地を眺めているので、目の前にある自らの苦悩を気にしない。大きな目的の前には小さな犠牲など付きもので、それが精神性の高さと表現される所以でもある。隠者の奇跡は各家庭に明かりを灯す、つまり混沌とした苦悩を救うための光そのものである。それは神によってではない。神のような大掛かりななにか、というわけではないにもかかわらず、実際に人々を救って回るのは、この日常的に身近な存在である隠者であるのだ。
たとえば伊勢神宮内宮が自宅から遠い場所にあるため天照大御神を信仰できない、というわけではない。とりわけ現代ではありとあらゆるところに天照大御神の文字がある。これらは伊勢に行かずとも信仰できるという意味になり、これが天照大御神を身近な存在として認知できる根拠になる。遠くから傍に降りてきてくださる神は、そのまま隠者の姿にも見えなくはない。たとえ本体は違うところにいても、その一端はすぐそばにいる。この安心感めいたものがイェソドだ。
 
ただし『普通』という言葉はイェソドにそぐわない面がある。もし普通とか一般常識という言葉を使うなら、なにが普通で一般常識なのか、というところまで考えなければならない。日常的なものは西洋占星術での月から読み解くが、ネイタルチャート、つまり読まれるべき出生図を持つ者の普段の生活は、読み解く者の常識の範囲外であることがある。幼少期に普通だと思って生きてきたものの、成長してからそれが異常な環境だと知った、というのは往々にしてあるものだ。それは月意識から太陽意識、あるいは水星意識や金星意識へシフトした結果、ようやく自覚できる類のものである。あるいは国を超えれば法律やルール、あるいは文化が違うため、持ち合わせている一般常識など吹き飛んでしまうことだってある。その場、またはその環境に応じてイェソドは変化する。強固なイェソドほど大きな変化となって現れるだろう。つまり『普通』などない。そのことを理解できなければ、イェソドの働きはいつまでも小さいまま、あるいは大きすぎるままだろう。
 
またイェソドは雰囲気やムードなど、目に見えない気配というものも司る。
なんとなく、という認識できる感覚をもたらすのはイェソドの働きが大きい。感じ取るのはネツァクがある左側の柱であるが、それをきっちり身にまとう、あるいは存在を意識させるのは中央の柱だ。それを右側の柱に移動させるとホドの力で言語化あるいは認識できるようになる。うまく、というかスムーズに歯車が噛み合うと、この印象は一気に具合性をもってマルクトに降りてきて現実のものになるのだが、どこかでパスが詰まると作用しない。意識化できない、言語化できない、認識できない、着地できない、その原因はさまざまだ。流れるような波に乗るという表現は、パスが滞りなく流れる働きによる。
目に見えない気配はイェソドであるので、なんとなくこうかな、という言語化できない思いがあるなら、その印象はホドやネツァクまでの働きを通過し、イェソドに溜められる。眠って見る夢の世界を言語化できないのはイェソドで蓋をしているからだ。忘却する夢の世界はイェソドにある。一向に陽の目をみない忘却がある代わり、頻繁に掘り出される忘却もある。
イェソドはフィルターと考えても良い。たとえばホドやネツァクだけではなく、テファレトからケテルのすべてのセフィラを含めたエネルギーを受け、マルクトまで届けるためのフィルターになる。ケテル、コクマー、ビナーという頭上3つのセフィラにおいてダートという安全弁が存在しているように、ケテルからホドやネツァクに至るまでのすべてをイェソドは受け止め、マルクトに送り込む。生命の樹において安全弁はふたつあると考えてもいいだろう。違うのは、頭上3つのセフィラはテファレト、ゲブラー、ケセドへ流すための安全弁だったのに対し、イェソドはマルクトに流すための安全弁だ、という点だ。地球で生活している以上、ゆるやかに実感できるのはイェソドの方だ。ダートはその気にならなければ実感できない。命の危険、または意識の果てにあるものを意識すれば、ようやくダートの存在を認められるだろう。
 
またイェソドと通じているパス、すなわち大アルカナを考えると、イェソドの働きが具体的にわかりやすくなる。
14・節制はテファレトのパスで、これは矛盾しない意志や実現力、理想と現実の合致などを意味する。過不足のない願望が意志となるので、すっきりと目標が見えてきて具体的に踏み出せる。過不足のなさはイェソドとテファレトという、中央の柱同士の揺るぎない方向性によるもので、テファレトの意志をきちんとイェソドが受け止める。テファレトが大きすぎるならイェソドは小出しに、あるいは消化をしながら受け止めるし、イェソドが大きいならテファレトもそれに応じた意志の強さを安心して発揮できる。
17・星はネツァクとのパスで、ネツァクはゆるやかな願望をイェソドへ注ぎ込む。イェソドは潤沢な世界になり、一気に拡大する可能性がある。ネツァクは外界の働きかけを受信するので異質なものも疑問に思わないのだが、イェソドでは判別できない。判別するのは右側の柱に移ってからだ。イェソドはひたすら溜め込んで、あるタイミングで吐き出す。
それは19・太陽でようやく具体的に認知できるようになる。ホドの具体性によって、ネツァクが受信したもの、またはイェソドが溜め込んだものをひとつずつ、つぶさに認知する。そこでイェソドは形になったものをしっかりと、21・世界のカードで、マルクトに向かって下ろすのだ。
 
この『溜めて吐き出しまた溜める』という働きは、まるで呼吸のようだ。左右の柱からの働きかけにより、中央の柱はそれぞれに立ち位置を定め、あるいは左右の柱に影響を与えるが、右側の柱のように形を作るわけでも、左側の柱のように受信し続けるわけでもない。ただ、そこに存在して呼吸をし、中央の柱を立たせている。印象、英知、智恵、そしてそれ以上のものをイェソドは溜め込み吐き出す。あまりにも日常的に行われているので、見逃してしまう働きかもしれないが、物質界では形になりにくい朧げなものはイェソドであって、人間を取り巻いて無意識のうちに働いているものだ。
 
もしイェソドの意味がわからなくなったら、『見えないけれど日常的にそこにある』と考えればいい。これはかなり乱暴な捉え方だとは思うが、かなり端的に表していると思う。
たとえば近所の道を通ったとき、前触れもなしに、ある建物が壊されていたと想定してほしい。その場所になんの店があったのか、あるいはどういう家が建っていたのか、そんなことさえ思い出せない場合がある。印象として残ってはいるものの、屋根の形がどうだったかなど微細に思い出せるなどあまりないだろう。これはイェソドの感じに非常によく似ていて、きちんと認知していると思えていたものが急に消えてしまうと、まったくなにも覚えていないことをいきなり知るのだ。そもそも本当にそこに建物があったのかどうかさえ怪しくなる。
無意識のうちに飲み込んでいたものは単なる印象にすぎず、実際のところ実感などはどこにもなかったのだ。見えていると思っていたものは理解できないまま存在していて、消失すればまったく思い出せない。『見えないけれど日常的にそこにある』というのは、そういった意味がある。見えているのに認識あるいは認知していないのはイェソドだ。
私たちは見えているけれど見ていないものがたくさんある。しかし興味がなければ、それはないものと一緒だ。物質を物質のままで存在させず、実感さえ朧げにさせてしまう。
 
これと反対に、見えていないものを見ている場合もある。おそらくこちらの方が具体例として挙げられる機会は多いだろう。夜の散歩中、すれ違った人がいたのに、振り向いてみたら誰もいなかった。すぐ振り向いた、しかも一本道で横道などない。いったい私は誰とすれ違ったのか。そんな経験は誰にでも起こる。しかし見えたということはホドの力を借りねばならず、またその見えていた影に気持ちを乱されるならネツァクから訪れたなんらかのものである。こうなるとホド、ネツァク、イェソドのセフィラを行き来している状態であって、イェソドを強烈に認識できるきっかけになると思う。ネツァクがマルクトに接する18・月のカードと似ているが混同せずに判断するためには、月のカードは繰り返しがあるという点を考えるといいだろう。いつも同じ場所でその影に出会うなら月のカードであり、一瞬そのときだけすれ違ったのならホド、ネツァク、イェソドの働きによる場合が多い。もしすれ違った瞬間にゾッとするなら月のカードなので、マルクトを巻き込んだと言ってもいいだろう。ゾッとしない、あるいは驚かないのであれば、マルクトは関与していない。
そういった類のものに日常的に接しているなら、そもそも驚かない。慣れているからだ。自分が与えられている印象は他の誰にもわからないし、もし異次元の存在を頻繁に見ているなら、他の人も同じように見えていると思っているものだ。実際のところはそうではないと気付くには年月や経験が必要だが、そもそも他の人には見えていない事実に気付かないことも多い。
ふと漂ってくる匂いや気配はイェソドに関与していて、その見えないものを介して我々はなにかを察知する。さて、誰もが見ている世界は本当に同じものなのだろうか。あなたの前に広がっている世界は、誰もが等しく見ている画一的な世界なのだろうか。
 
西洋占星術での月は無意識のうちに身にまとうもの、または無意識のうちにわかっているものが含まれる。肉体とは別のものが存在していて、それは感情や意識など、連続的に味わうものだ。咄嗟の思考回路や行動など、あなた自身が自覚していないものが出生図の月に現れている。この自覚のなさは第三者から見れば如実にわかっているものもあって、たとえばこの人は幸せだなと思えても、本人は「生まれてからずっとこうなので幸せとは思っていない」と言い切る場合がある。その反対に、傍目には大変だろうなと思える問題でさえ、本人にとっては楽しさや充実感さえある場合もある。このクセのような、無自覚な状況が月の真骨頂だ。もちろん具体的に痛感し続けているような問題もある。現実と理想あるいは思考の食い違いは日常的に起こるが、感情がついていかない、あるいは感情として飲み込めない場合がある。この感情は月の働きによる。月が木星あるいは海王星とアスペクトしているなら、アスペクトの種類にもよるが月の働きは拡大していて、どこかのんびりとしたムードを出すだろう。これが天王星や火星であれば鋭く、どこか直情型の様相を出す。しかし本人は無自覚な場合が多い。自分では当たり前だと思っていることでもまったく当たり前ではないのだが、トランジットなどで他の天体がヒットすると、いきなり底からの衝動や出来事として表面化し、自覚するきっかけになる。しかし感情がついていかないのは、月のサインの性質にもよるが、他天体の働きから強い影響を与えられると月を書き換える必要があっても、それを拒絶した場合だ。拒絶するか許容するのかは本人次第だが、それが容易かそうでないかは、各個人にとって違いはある。
もっとわかりやすく言い換えるなら、とても存在感がある人物がいるとしよう。その人は派手なわけではないし、声が大きいわけでも、仕草が変わっているわけでもない。しかしどうしても目を引く。こういう人は本人の月が作用している場合が多い。
ちなみに、もしどうこうしたいなら、ホドとネツァクを鍛えるといい。ホドとネツァクを大きくすればイェソドは引き上げられて大きくなる。ホドとネツァクから流れてくるものが大きいならイェソドも併せる必要があるからだ。反対に縮小したいならホドとネツァクを閉じれば、イェソドも小さくなってくる。
 
イェソドに関しては、その見えないものを感じさせる、あるいは感じる働きがある。無意識ながらも身近でわかりやすいものだ。
これを小アルカナに置き換えると、さらに鮮明にわかるようになるだろう。
 
ワンドの9
ワンドは生命力や元気という火の要素になるが、これが日常的に起こるとなると、ずっと臨戦状態にあるという意味になる。パメラ氏が描いたウェイト版のカードでは、ワンドを抱えた人物が8本のワンドの前に立っている。人物の足元は灰色であり、立っているワンドの向こうの風景が山々である以上、こちらとあちらの世界は違うという意味になる。こちらは整っているがあちらはまだ、という状態だ。いつでも戦いに行ける状態ではあるので、気力は充実しているし、いつでもどうぞ、という話になる。きっかけひとつで弾き飛ぶような緊張感があるが、実際のところは本人がどうこうできない。そもそも9は精神性の数字であるので、気持ちはあるが実際のところ動けない、あるいは動いていないということになる。なんらかの知らせを待っているが、すぐに対応できる状態であるので、いったん行動したらあとは早い。向こうに見える山に走り戦うだろう。しかし味方から出陣の合図があるとは限らない。山の向こうから敵が来たら立ち向かわなければならないので、その緊張感は相当なものだ。ワンドの9は本能的なものを表す場合が多く、思考よりも先に行動に出る典型でもある。策略など関係なく、咄嗟のものだけで打ち出でる勇気や行動力は、このワンドの9に備わっている。しかし正位置であればスムーズに出せるが、逆位置であれば躊躇いがあって、なかなか打ち出せない。出る必要があるのはわかるが、なかなかその気になれない、という場合である。躊躇う理由は同時に展開した他のカードを読めばわかるのだが、このカードが逆位置で出た以上、問題解決に至るには本人次第というところが大きいので、時間をかけるか理由を深堀りするかで対応が変わってくる。
 
カップ・9
ウェイト版では、9つの杯の前で腕組みしながら座る男性の図で示されている。カップは感情を表し9は精神性を表すので、これは精神的に満たされた状態である。日常的に満足をしているため不満はなく余裕がある。ただし、物的あるいは金銭的な問題は、規模または金額の大小に左右されない。たくさんのものに囲まれて幸せというよりは、個人的に満足できるほど所有している、と言った方がいいだろう。このカードの根底にあるものは『満足感』だ。たとえ他の人が価値を認めずとも、この人物は満足しているのである。なにが第一の目標であり願望であるのかが大きなカギになるが、もし正位置であれば過不足がないので、このまま楽しく頑張れば良い、ということになるが、もし逆位置なら満足感に乏しいため、あくせくと求め続けるようになる。求める心情そのものは悪ではないが、かなりのストレスは感じるだろう。また所有していても流れてしまうという象意はカップだからこそで、たとえ満足できる状況であっても、どこかで不満足を感じている。自信のなさ、裏打ちの少なさ、実感のなさといった原因があり、どこかから漏れてしまう。カップの前に鎮座する人物の後ろには水色のテーブルクロスがあるが、これを滝と読むとわかりやすい。カップから潤沢に流れている水なので、もし逆位置ならカップに水を注ぎ込む必要がある。それは目移りせずに集中すること、注意を向けて一心不乱になることだ。
 
ソード・9
ウェイト版ではパメラ氏のソードへの辛辣さがよく表れているカードのひとつで、悪夢から起きる人物が描かれている。ただしそれだけではないのが一癖あるカードだ。というのもソードは風の要素であり、風は知性を表している。それは飛び起きた人物の寝具に描かれている。もし悪夢で飛び起きたと仮定するなら、その内容はベッド下部に描かれた内容を読み解くといいだろう。また、上掛けには花と12サイン、各惑星の記号、それらに属さない謎の描写である。すべてを身体にかけているというのは、それらの要素がすべてあってカバーされ守られているが、起きたばかりに身体から離れてしまうので不安を感じる。すべての要素を見つけているというのはある意味で恐ろしい。それは日常的に不必要と思われるものを網羅しているからだ。もちろんすべてを求めるなら矛盾や葛藤なども受け入れる必要があり、ソードのスートであればそれらを切り刻み理解しなければならない。もっと安易に言い換えるなら、難しいことをずっと考え続けている人物、ということだ。あまりにも考えすぎて寝ていられない、あるいはそのことで頭がいっぱいになってしまう。こうなるとパメラがこのような描写をしたのは頷ける向きがある。もし平穏な生活を望むなら考えるのを止めて肉体的または物質的な快を求めればいいからだ。しかしそうではなく、知性そのものを日常にしたのなら、その方向から一線を画す可能性がある。身近な使える膨大な知性はソードの9にあるので、ここへ入り込んでいるなら、頭は休まる暇がないだろう。このカードが正位置で出たなら、質問者の頭の中は悩みでいっぱい、という状態かもしれないし、良くも悪くも考えすぎて思考だけが先走り行動が伴わない、という場合もある。しかしこのカードは絶望や挫折ではない。思考は無駄にはならないからだ。たとえば研究者などの高度な知性を用いる職務ではかなり有利になるので、カードを展開した際、どの位置にこのカードがあるのかを検討してほしい。また逆位置であるなら思考が止まっている状態であり、感覚で判断しようとする傾向がある。思考的になると逆位置がひっくり返るだろう。
 
コイン・9
物質的なものに囲まれたイェソドは余裕のある様を示している。文句なしに物品あるいは金銭、さらには身体的に恵まれているので、豊穣の恩恵に与るカードだ。ウェイト版では女性の背後には葡萄が実っているが、葡萄は多産や結実を意味し、成功の象徴でもある。さらには葡萄は人間を意味しているので心身の充実っぷりが伺える。カップは心的な満足であったが、コインは心情だけではなくきちんと現実的な豊かさがある。過不足ではなくあふれんばかりの富だが、イェソドであるので日常化しているため、本人は気付かないかもしれない。また鳥は自由の象徴ではあるが、この女性は手袋の上に鳥を止まらせているため、直接的には手を下さない。描かれたコインには素手で触れているため、それほど頑張らなくとも手に入るものを示している。このカードが逆位置であれば、その状況を渇望する、あるいは不満足となる。正位置にするためには鳥を操る、あるいは自分のものにする必要があるだろう。もし鳥を手に入れたいなら埋もれた才能を発揮する必要がある。苦手だと思えるものに着手し、続ける必要があるのだ。それらを意識し日常的に相対するなら、鳥は手に止まり正位置になるだろう。これは難しく考える必要はない。そもそも現実性のコインであるため、具体的な行動に移せばいいだけだからだ。
 
以上、イェソドについてでした。
9の数字が精神性と表される場合が多いのは、見えない世界に秩序を持ち込もうとする場合が多いからだと思います。なんとなく信じている、みたいなものも精神性に結び付くので、なんだか妙に満たされる感じにもなるでしょう。ただしそこまで難しく考えなくとも、次のセフィラであるマルクトを充実させるために目的意識を持つ、というのもイェソドですから、見えないながらも日常的に親しんでいるセフィラだと思います。

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