東洋占術と西洋占術の違いに関する個人的な見解

とても個人的な実感です。
ですから自分の感じていることです。

東洋占術と西洋占術。
違いなんかないでしょ、と思われるかももしれません。
変わらないと思えることはたくさんあります。占いですし。
あなた自身どういう感じの運勢でしょうかね。どんな性質を持って生まれてきたのでしょうかね。では、ちょっと先とか、やや遠い未来のことを読んでみましょう。というところは変わりません。今の悩みに対して「こうすればいいのかもよ?」というニュアンスをお伝えするので。

ただ、たとえば易や四柱推命、手相や姓名判断のような東洋占術と、タロットや西洋占星術のような占術ではタッチが違うなというのは、個人的に前々から強く感じておりました。
それは思想的な、哲学的なものなのか。それとも受け取り側の問題なのか。そもそも占術の成り立ちの問題なのか。

東洋占術は、とりあえず断定します。この「断定」というところが強いです。吉であれば吉だし、凶であれば凶。凶だったらどうすればいいのかな、という部分には重きを置いていないような節があります。
姓名判断も実は「凶なんだからねー」というニュアンスを強烈に押し出してきます。凶なんだからやめときなよ、という感じ。

若かった時代の私には、どうもそれが馴染めなかった。
だって「じゃあどうすればいいですか?」というお客様のご質問にも「うーん。じゃあ改名してみますか」という流れになったりする。悪い数字なら、その凶意をどうやって避けるか、あるいは取り除くか、または弱めるか。そういったところに主眼を当てます。

たとえば20画の画数は四大凶数のひとつであって非常に良くない数です。2という分裂の数に0がくっつくと、取り組んでいることが空中分解して中途半端で終わったり、成功しても一晩のうちに失ったりすることがあります。この20画を持っている方にも大成功者はいますが、かなり頑張って取り組んでいるものと思われます。もしくは周りに強大な協力者がいらっしゃる。なんといっても「20」の数字なので、2つの物事に関して縁があるので、パートナーに恵まれれば安泰かもしれない。そうして凶意を取り除くということなのですが、まぁでも一晩で失うことがある、という意味には姓名判断上では変わりありません。

大成功者に末尾0画を付けて良いのは勝負師ですね。勝負の世界で生きるということを決めたら末尾0で活躍できます。それも猛烈な運気を一気に使うので燃え尽きないように気を付けた方がいいです。そして穏便な人生を送りたいなら、このような勝負師の数は非常に激しすぎる。

さて西洋占術ですが、こちらはなんだかふんわりとした世界です。東洋占術と同じように断定はしますけれど、どこか逃げ道がありますね。タロットの塔が出たとしても、悪いですと伝えますけれど、じゃあどうしましょうかという話ができる。他のカードを参照しながらでも「じゃあ謝っちゃいましょうか」とか話せます。占星術でもそうで、何とか手法を駆使して、仮の感受点を作ってトランジットの天体が入り込む時期を割り出したりする。
これは、東洋占術と比べても、かなりふんわりした感じだと思うのです。やっていることも内容も、なったくふんわりしていないのですけれど、東洋占術に比べると、かなりふんわりしています。

つまり、西洋占術と東洋占術の違いは、わりとはっきりとした実感として横たわっているのです。

ところが。
年を取りまして、若かった私も中年の域に達しまして、友人との会話にも健康状態の話で盛り上がったりする頃合いになりまして。
東洋占術と西洋占術の違いには昔から変わらない実感と感想を持ちながら過ごしておりましたが、東洋占術の「断定的な物言い」に、かなり親和的になっている自分に気付きました。

そう、占いは断定的でもいいんだ。

これは年を取って経験を得たというのもありますが、私に何か変化があったのかというと、あまりないと思うのです。ずっと占いをやっていて、考えるとか話すとか書くとかを血の滲むかもしれないような思いで、とても楽しみながらやっていました、という一点だけです。

でも、易や姓名判断や四柱推命などの「だからダメ」という断定的なアレが、なぜか心地よく感じられてくるようになったんですよね。

たぶん基本的には、私の占いに対するアプローチの問題だと思います。

西洋占術には、アドバイスがほしいとき。理想を追い求める気力があるとき。
東洋占術には、言い切ってほしいとき。現実を突きつけてもらいたいとき。

この使い分けというか違いが非常に分かりやすく、とても気持ちいい。

言い切ってもらえた方が良い場合があります。
これは、時間がもったいない、という考え方が根本的にあるのかもしれないですね。ダメだったら早く次に行きたいし、という感じですね。
年を取るとね、時間がもったいないんです。
若い時より時間が流れるのが早いのに、これ以上は悠長に構えてなんかいられないよ、という超攻撃的なスタンスです。
西洋占術の中にある「ふんわりしたもの」に救われることもあります。それが心地よいと感じるのも、今でも変わりません。
なるべく言い切ってもらいたくない、なんとか頑張りたい、ということもある。
この違いは、けっこう大きいんじゃないのかな。

現代社会となりまして、東洋占術においても「吉か凶か」ということだけではなく、ちゃんと解決法というかアドバイスを用意する動きがあります。これはとても興味深い問題で、西洋占術的なものの捉え方を、東洋占術としても時代に即した形で受け取ろうとしているのです。
悪い結果も悪いだけじゃない解釈にしてみたりして。かなり画期的です。

東洋占術でも易ではそうですね。「こうしなければ吉」とか、「良いけど慢心しないように」とか解説されていたりします。でも西洋占術の細やかさには及ばなくて、かなりぶったきった感じはします。基本的には悪いんだからさー、という断定的なものが根本にある。

でも東洋占術の、あの歯切れの良さは、すごくいいものです。
一方で、西洋占術の柔らかさと優しさも、とてもいいものです。
どちらもいいんですよ。

西洋占術も本来「悪い結果は悪い」というものがありました。
タロットも占星術でも、悪いものは徹底的に悪く書いてある。でも現代社会の生き方の多様性が発達してきて、ものの捉え方にも変化があって、悪いものも悪くないんじゃないか、という風潮が大きな流れになった時点で、いろいろ対応してきたのだと思います。

捉え方の違いなんでしょうけれど。
繰り返しますが、私はどっちも好きです。というか占いをしていると、どうしてもどちらかでないと対応できない瞬間があります。
命と卜と相の関係で、西洋占星術でネイタル出して、タロットをして、場合によっては手相や名前も見ます、みたいな感じ。自分でも節操ありませんが、これはすごくよく分かる運勢の断片図です。

まぁ、なんでも好きな占いをお勉強したら良いですよね、というお話しでした。
東洋と西洋の占術のスタイルに違いはあります。
でも使いようだから。好きなものを手始めに、どうぞ。

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