タロット。18・月

生命の樹ではネツァクとマルクトのパス
 
星のカードでは女性が一心不乱に水を注いだが、月のカードはその水がマルクトへと流れつき、ひとつの動きを作り出す。
マルクトはそもそも地上の王国と言われていて、いま私たちが存在している世界での王国である。ただし、ひとつの生命の樹ではあるものの、このひとつなぎの軸を本流にするなら、下位世界のケテルにも成り得るセフィラだ。かなり猥雑にはなるが、実はどのセフィラも『軸をそこに当てるなら、そのセフィラがケテルになる世界はある』という考え方がある。しかしそれは軸を左右どちらのかのセフィラ、あるいはまた違った場所にある生命の樹を突如として引っ張ってくる、という、ちょっとハードなシフトが必要になる。そのため基本的に、ひとつなぎの生命の樹、という表現にとどめておく。タロットカードを解釈するうえでは、このひとつなぎの生命の樹を理解することが重要だからだ。
下位世界のケテルに成り得るマルクトは、均衡の柱の軸をずらさない場合の話である。そしてこの生命の樹のケテルは、もうひとつ上位の世界においてはマルクトであり、さらにその上位のケテルは、というふうに止めどもない。もちろん下の世界もさらに続く。マルクトは下位のケテルになり、その下位の生命の樹のマルクトは、さらに下位にある世界のケテルになる。これは循環ではなく、単なる連続性の話である。
 
また、とくにウェイト版で描かれた月は上弦から満月、下弦まで読み取れるが、この横顔が誰かというなら、それは女教皇だろう。ドレスの裾に置かれていた月は、そのまま女教皇を映し出していたと言っても言い過ぎではない。ケテルから続く均衡の柱から真っすぐにマルクトへと降り注ぐとき、それは女教皇のエネルギーを受け継いでいると言ってもいいからだ。女教皇が上からマルクトを見下ろし、静かに見守っていると言ってもいいだろう。場合によっては見てはいないかもしれない。しかしその意義は大きな流れとなる。
 
さらにはネツァクのある慈悲の柱の最上位にあるコクマーから、中央の柱の最上位のセフィラへとつながるパスでは愚者のカードが相当していて、未知の世界への旅立ちを意味した。同じように、この月のカードは、慈悲の柱の最下層のセフィラであるネツァクと、中央の柱の最下層のセフィラのマルクトのパスである。つまりこの愚者と月のカードは『異次元とのつながり』という意味では共通しているのだ。
このカードを考えるとき、愚者が崖から落ち海に飛び込む状況がよく読み取れる。この月のカードにはサソリあるいはザリガニがいて、脊椎動物ではない異質なものが描かれている。この月のカードで誰かが水たまりの中に飛び込む人を見たら、危険性や禍々しさ、あるいは少しの好奇心を感じても、ちょっとおかしな人かもと思うだろう。愚者が崖から落ちる姿を、この月のカードでは、階層は違いながらも、そっくりそのまま見ているのである。遠くからつながっている道に愚者が現れ、一気に水たまりに向かって落ちて行ってもおかしくはない。
もしかしたら愚者が飛び込む瞬間、あのカードに描かれていた犬は、この2匹のうちの一方なのかもしれない。
 
さて、この月のカードは、未知なるものの認識という段階を経る。暗闇に光る星は小さく、あまりにも頼りない。しかしこの光は月のカードになると、ハッキリとわかるようになる。このカードの次は太陽だが、悪魔や塔での暗転から星、月、そして太陽に至るまで、その光は次第に強くなり、まわりの光景も段階的に鮮明に見えてくる。しかし月の光に照らされても太陽ほどでもない。とくに月は満ち欠けをするため、その日によって見え方が違ってくる。この変化が人間の感情や状況に反映させると、不安定さや不安、言いようのない恐怖、などの意味になる。
 
たとえばそこにあるものなのに見えないという具体例として、肉体の内側がある。エックス線やエコー診断検査、あるいは血液検査などを用いれば、容易にその状態が見えてくるにもかかわらず、普段では目にすることができない。このエックス線などの検査が月の光であり、それを当てられたことによって、おぼろげながらも画像として、あるいは数値として可視化する。
または言いようのない気配、ということもある。なにも未明の外界だけではなく、明るくとも見えないなにかを察知する、という場合だ。見えないからこそ恐怖心を煽られて不安にもなるし、未知なる世界を察知して足が止まる。下位世界への旅立ちは危険という認識がある場合、無意識のうちにストッパーがかかり、シャットアウトするだろう。しかし事実もしかしたら本当に存在しているかもしれない、という思いは消えることはない。すっかり忘れてしまうなら問題にはならないが、一度でも察知し開かれた回路は、いつでも振り戻される危険性をはらんでいる。揺らいだ感情あるいは意識や状況は不確定要素となり、どのような場合でも変化していく。
 
月のカードに描かれた動物2匹は犬と狼と言われているが、無脊椎動物のサソリあるいはザリガニとは明らかに異質だ。人間により近い犬や狼が、形を変えゆく月に向かって吠えている。吠える姿は人間の恐怖心であり、危険性を知らしめている。マルセイユ版では月の光では水の中にサソリあるいはザリガニがいて、その姿が本当にいるかどうかがハッキリとはわからない。日ごと月の光には強弱があるので、その弱さによってはザリガニを認識できないだろう。あるのかどうかわからない、けれども気配は察知している、という、不安定な要素である。ウェイト版では少し進み、サソリあるいはザリガニが地上へと出かけていて、認識されつつある世界を意味している。予感や予兆などの世界である。
もしもう一歩でも踏み込めば、サソリあるいはザリガニが地上に出てきてしまった以上、マルクトが息をし始めた、という解釈もできる。そこにあるだけではなく、容易に踏み込まれてしまっている。享楽的で若々しく柔らかなネツァクの精神は、そこで脅威にさらされてしまい、受け入れざるを得ない。怖い夢を見てその情景が忘れられない、などが挙げられるが、それはいったん開いた意識を閉じること自体が難しいということにもなる。
 
月のカードにおいての基本的なテーマは不安定さや不安感であるが、その原因は未知なるものを認識するという一点だ。しかし同時に、この不確定要素は停滞していた問題を動かす要因にもなる。ちょっと不安な感情を抱いても、一時的な問題になるだろう。たとえひどい状況であっても、遅かれ早かれきちんと変化する可能性が高い。
 
なお18の数字は9×2であり、隠者の意味が多少なりとも参考になる。隠者は自らの光を届けに地上に降りた。月のカードではその光を自らの中にともす。他者に働きかけるのではなく、自らに明るさをもたらす。つまり、自らのどの部分に火を入れたら良いのかがわからずに悩んでいる、という解釈もできるので、精神性の揺らぎが不確定要素を生み出している、あるいは不確定要素に感情が振り回されている、と言ってもいい。しかしいずれにせよ違うなにかを見つけられれば、その水たまりにあるサソリあるはザリガニを意識できるのであれば、少しずつ方向性は見えてくるだろう。
取り込んでしまえばいい、という段階になるまでには時間がかかるかもしれない。しかしこの月のカードは変化するカードなので、基本的にはいつまでもその状態が続くわけでもない。
また6×3、あるいは3×6の解も18である。これは直感、召喚の6と創造性の3の結び付きであって人によっては芸術的な源流と成り得る。極端な例ではあるが、ゾッとするような体験を経て、そのものを芸術へと昇華させる流れだ。6が先か3が先かという違いはある。直感があったから創造性に結び付いたのか、それとも創造性のために直感に導かれる、または召還するのか。いずれにせよ人それぞれだが、たとえば破滅型の芸術家は、この回路を使っているのだろう。現実世界の安らぎを飛び越え顧みず、わざわざサソリあるいはザリガニのいる水たまりに顔を向け、その非日常的な衝撃を味わうのだ。3の数字は生む意味がある。そこで覗かれたものは技巧のある者であれば形にできるだろう。これは衝動性を伴うので、どうしてもそうしなければならない、という感覚がある。底が知れない水たまりに足を入れるかもしれないし、ギリギリまで顔を近づけるかもしれない。月の光の中で見つけたサソリあるいはザリガニが芸術として形になった場合、その作品は人々の心をざわつかせ、なんらかの衝撃を与える。もちろん創造性の3の数字は、他のカードにも存在するため、なにも月のカードに限られた話ではない。しかしそこに召喚という非日常的な、妖しくも抗えないものがきっかけとなり、芸術家に豊かな創造性と安らぎを与えることがある。サソリあるいはザリガニが引きずり込む水たまりを日常意識の住処としてしまうのだ。現実社会でも月のカードの水たまりでサソリあるいはザリガニを見つけるための人工的な手段は多いが、それそのものを目的にしてしまうと、場合によっては非合法になるかもしれない。
 
蛇足になるがウェイト版で月から発せられている光は32本ある。パメラ氏あるいはウエイト氏が意味もなく32本にする訳がない。これを読むなら16×2である。16は言うまでもなく塔であり、破壊された意志でもある。この破壊が自らの方向へと雷を発していると考えるなら、かなり危険でもあると言えるだろう。さらに月の光を数えると15になり、これは悪魔のカードだ。強制力、思い込みからくる苦しさ。そのようなものに縛られ、抜け出せない可能性も示唆されているので、一時的な問題であったとしても、きちんと考え行動する必要はある。
ちなみにマルセイユ版での月の光の本数は見えない。というのも上部が切り取られているので数えられないからだ。しかし二重の光が見て取れるので、変化を生み出す二極化されたものがある、と読める。
 
以上、月のカードでした。
占いでこのカードが出てきた場合、展開された場所によって読み方が異なります。状況のカードであればかなり不安定で変化は激しいでしょう。質問者の主体として現れたならその不安要素を本人が意識している場合、かなりの迷いが読み取れます。しかし同時に展開された他のカードを加味することで、その揺れは良い変化になるのか、あるいは逆位置だった場合では思い違いや考えすぎなのか、というところまで行けると思います。大アルカナで月のカードが出た以上、一貫した不確定要素があるのは大前提です。小アルカナばかりの展開であるのに、大アルカナが月のカードだけであった場合、ちょっと注意をする必要があるでしょう。そうなれば質問そのものを吟味し直す方向性もあるのですが、他のカードがすべて元気でポジティブなカードの正位置であるなら、迷っているのは月のカードだけなので、カードが出た場所を中心にして重点的に読み込んでみてください。もし逆位置が多い、あるいは意に反したカードが多く展開されたなら、不安になる要素がいっぱいあるので、ひとつひとつ整理すると良いでしょう。
他の大アルカナも一緒に展開され、結果の場所で月のカードが出た場合、時間が経つほどに不安が増しそうですね、とか、いまの段階での頑張り次第では変化しますよと私なら言います。繰り返しますが、かならず同時に展開されたカードを紐解いてからの言葉です。
でも、もし一枚引きで月が出たなら、変化が激しいからしっかりね、とか、ちょっと違う方法や要素を取り入れてみたら、という話をします。
不安がっていることには間違いないので、早く次の段階に移行するための準備をするよう伝え、変化をそのままもうひとりの自分として受け入れると良いかなとも言います。
月の光に照らされ水に映った自分の姿がサソリやザリガニだった、ということもあるし、サソリやザリガニがいなければかえって不満だ、みたいなこともありますよ。サソリやザリガニがいるから安心して、水たまりに映るなにかを見つめるのです。
 

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