親子関係のツイートや記事を通して自分を知っていく


私は母親の事が嫌いだし、自分の人生がうまくいかないのを母親のせいにしたがっているだけの存在だと思う。

母もクズだし私もクズだ。病名を聞くたびに父に濁されるので病名は知らないが、何かしらの病名がついて障がい者認定されている分母の方がずっとマシだ。

それでも、ネット上でたまたま見かけただけの親子ほのぼのエピソードは結構好きだったりするし、子育てに苦労する親御さんたちは大変だろうなと思う。不登校の子を持つ親が強い言葉を使ってしまうのを見ても大変だろうと親御さんに同情してしまう。

子自慢を見れば「こんな素敵なお子さんが育ったのは親御さんの普段の接し方が良いのだろう」と素直に感動する。

基本的に親の方をひいき目で見てしまうのだ。

ネットを見ていると、自分の親と重ねてでもいるのかちょっとした事でも親側の失態を責める人が多い。「あなたの言葉がトドメになる」「虐待だ」「あなたは親になるべきじゃなかった」などとかなり強い言葉を目にする事が多くて驚く。

こういった言葉を使う人の中には、100%白じゃないと叩いて良いと考えている人や、完璧主義を他人に強要する人もいると思うのだが「私は嫌だった」という人も多い。

子側に感情移入し過ぎていて、親側の苦労や状況なんかを想像していない人が多いように思う。

さて、ここでタイトルについて。


母親を嫌っているのに私はなんでそんな風な考え方をしているのだろうというのが自分でも疑問だった。

どちらかというと私は、子に感情移入して親を非難する側の人間ではないかと。

それなのになぜ、という疑問には未だ答えは出ていない。

しかし最近考えた事がある。

もしかしたら私は、素晴らしい子が親の素晴らしい子育ての結果生まれたものだと思う事で、自分は悪くないのだと考えようとしているのではないか。

という説だ。

自分はダメな親に育てられたからダメ人間に育っただけで、自分は悪くないのだと思い込もうとしているのではないか。

だとしたら、自分自身に無責任がすぎるし、子供っぽすぎる。しかし可能性としては十二分にありえる。だとしたら相当恥ずかしい。

もう一つありえそうなのは、物語として考えているからというものだ。


私は元々空想が好きだったのもあってか、漫画でもなんでも、主人公にとって嫌なポジションのキャラクターの思考に思いを巡らせる事が多い。

この人物はこういった出自だろうからこうなって、だからこう感情が動かされて、これが気に食わないに違いない。だとかいちいち考えていた。

そしてそれがだんだんと自分の中で記号のように当てはまるようになっていき、この人物にはこの属性が付与されているからこう思うに違いない、これがトラブルのもとになるだろう。といった、予測メインで物語を楽しむ事も多くなった。

親は子を愛おしく想い、そのためなら命も投げ出し、子もまた親を愛おしく想い、会えない時間がたまらなく辛い。

自分の人生とはかけ離れているが、これが私の中での物語を楽しむ上での常識だったりする。

自分の母親の愛は信じてはいないが、物語を読む上では違う。家族愛がテーマの物語を読んでいる時は親子の愛を想像して涙する。すみっこぐらしではとかげが好きだったりする。母に会えないとかげの寂しさに、我が子に堂々と会いにくいお母さんの辛さに涙する。

自分の母親とはこのまま一生会わずにいたいと思っているクセにだ。

子供の時分だって、見舞いに行くのが憂鬱だったクセにだ。


何が変わらない親子愛だ、現実ではお互いに死んでくれと言い合ったような関係だ。


物語を楽しむ時と同じように、私は現実世界を生きる親子の話にも自分の価値観というか設定を当てはめて楽しんでいるんだろうか。

それともやはり、自分がクズなのは親のせいだと思いたいがための思考なんだろうか。

どちらにしても恥ずかしいことだと思う。

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