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にじさんじライバー・出雲霞の卒業から考えるVtuber=着ぐるみ論と「物語」の呪縛

なんとなく、現実感を覚えなかった。
それが、大手バーチャルYouTuberグループ「にじさんじ」に所属する出雲霞というVtuberが卒業するという告知ツイートを見たときの印象だ。

それはきっと、サブアカウントによる告知で、当日に行われた誕生日配信のラストで本人の口から発表されたことも知らなかったから、かもしれなかった。
でも、そういう経緯を知っても最初の印象を覆せなかった。
なぜなのか?
そんな疑問を出発点にして、Vtuberと物語性について考えていこうと思う。


Vtuberという「着ぐるみのひと」

Vtuberは、かつての「四天王」と呼ばれた人たちが牽引していた頃より、ずっと賑やかになった。3Dが主流だった初期に比べてLive2Dモデルの製作を斡旋するサービスが生まれるほど二次元キャラのVtuberも増えた。
その流れを作った一端を担ったのがVtuberグループ「にじさんじ」だった。おそらく企業勢としては最多のVtuberを抱え、現在に至るまでV界隈に一定の影響力を持っている。

人数が多いと言うことは、それだけトラブルにも多く見舞われてきた。グループ所属Vtuberの配信内容での「炎上」なんてしょっちゅうだし、会社の運営のことやり玉に上がる、なんなら役員経験のある社員が病気になっても話題になる。
そして、去って行くひともいる。

規約違反による契約解除(簡単にいえば「クビ」)になった1名と、後に復帰したもう1名を除いて、これまで11名がにじさんじを「卒業」している。活動晩期にはほとんどTwitter更新も配信もなかった者も、さよなら配信をした者もいる。

しかし、アイドルと違って、Vtuberは「卒業」しないこともある。名前と姿を変えて違うVtuberをやっている、と噂されている人もいるし、それはたぶん、本当なんだろうな、と僕は思っている。
にじさんじのVtuberって、着ぐるみっぽいからな、という納得で。

にじさんじは、その端緒が「誰でもVtuberになれるアプリの開発」だった。かつて一期生と言われていた人たちはそもそもがアプリのテスターとして集められていて、人気がでたことで「にじさんじ」はアプリ事業からVtuberプロデュース事業に移った。
その成り立ちのせいか、にじさんじのVtuberには発表時に必ず「自己紹介文」が付いてくる。演者(いわゆる「中の人」)が知らないところで書かれた、いわば「キャラクター設定」だ。

もちろん、多くのVtuberも「設定」を持っている。でもそれは、外見にまつわるものがほとんどで、にじさんじのVtuberたちのような「性格」まで規定されたものはあまり見かけない。

かつてVtuber四天王といわれた人たちも設定を背負っていたし、それを出来る限り準拠しようとする「演者」だった。
ところがにじさんじでは、その設定を「ネタにする」という横紙破りが一種の伝統になっている。もっとも有名なのはグループ一の知名度を誇る月ノ美兎だろう。

月ノ美兎
つきのみと/Mito Tsukino
高校2年生。性格はツンデレだが根は真面目な学級委員。本人は頑張っているが少し空回り気味で、よく発言した後で言いすぎたかもと落ち込んだりする。


彼女の配信や言動を見たことがある人はよくわかると思うが、「こんなんじゃねえ」わけである。本人は清楚な学級委員長と言い張るが、直近の配信がくっころ女騎士との恋愛ゲーム実況なのでだいぶ無理がある。それが公式プロフィールの下に埋め込みされてるシュールさったらない。

月ノ美兎は、正しくいえばその演者は、設定通りのキャラクターを演じるということを早々に放棄した。その代わりに、「委員長キャラを演じている面白いひと」になった。『映画ムカデ人間』(R指定作品)に対しての言及や「夢の中で」水タバコを吸ったことや体験することをリスナーにすすめたりと、かなり無理があるが。

それってなんだか着ぐるみみたいだな、と思う。
テレビに出ているものじゃなくて、街の文化祭の時にやってくるゆるキャラみたいな着ぐるみの人。中にいるのがプロの演者じゃない、普通の人だから、子どもに混じって叩いたら叩き返してくるような、そんな類いの。

着ぐるみは偽者だ。本来なら存在していないものやありもしない空想の設定通りのものがここにあるんだと思わせるための作為。
でも、着ぐるみを見ているとそのことをちょっとでも忘れる瞬間がある。いかにも作り物の布で身体を覆った変身ヒロインに声援を送る子どもはいるし、手を握ってくる着ぐるみの宇宙人に泣き出す子どもだっている。
そんな子どもたちと同じように、僕たちは月ノ美兎が「にじさんじ」の委員長であることを認めて、彼女がきらびやかなステージで唄い踊る「バーチャルアイドル」になっていく姿にどこか感動を覚えていく。

それは僕たちの目の前で偽者であるはずのナニカが本物に、あるいは別のものに「成っていく」姿であり、その課程を「物語」として受け取っているからだ。

出雲霞という「物語」

出雲霞の公式プロフィールは、一度変更されている。

ぼーっとしていて、何を考えているのかわからない女子中学生。
お気に入りの枕を常に持ち歩く。
学校では窓際の座席で、空を眺めているか寝ている。
(2018年12月3日まで)(非公式wikiより)

現在のものは以下のようになっている。

ぼーっとしていて、何を考えているのかわからない女子中学生。お気に入りの枕を常に持ち歩く。
実はとある実験の為に「出雲霞」という少女をモデルに作られたAI。現在は異なる個性を持った5つの人格データが存在する。

(公式プロフィールより)

それだけでなく、今年9月からデフォルト衣装も学生風のデビュー時のものからデジタルキャラクターっぽさを取り入れた改造制服のほうに変更されている。

公式プロフィールやデフォルト衣装の変更は、他のにじさんじ所属のVtuberでも起こっている。例えば、月ノ美兎と同時期にデビューした樋口楓のプロフィールからは劇団所属という設定は削除され、配信活動を始めた理由が追加された。
だが、出雲霞のプロフィール変更にはその複雑な「設定」が関係している。

詳しくは上記動画を参照して欲しいが、Vtuberとしての出雲霞は当初のプロフィール通りの女子中学生ではなく、自殺未遂によって昏睡状態に陥った少女を再現しようとして作られたAI、という設定だった。その伏線を彼女はいくつもの配信のなかで見せていて、例えば複数の人格を持つAIという特性をイマジナリーフレンドで示唆し、同期ユニットの中でも匂わせてきた。
そしてそれが開示された後も、実在の人間を模したAIから派生したコピーというキャラの深掘りを進めていた。

彼女のファンではなかった、存在だけを知っていた僕が書くことは恐れ多いことだが、こうして眺めたときに口を突いて出るのは「難解」という言葉だ。それは彼女自身、感じていたことなのかもしれない。上記のまとめ動画の中で、この「物語」を紡ぐ彼女のつっけんどんな口ぶりは、演技なのか、それともこの「脚本」に対する自己評価なのか、わからないほどだ。
そう感じるのは僕の錯覚かもしれないが、その原因は(かたちは違えど)「物語」を書いている人間として、なんとなく見知った感覚を抱いたことがあるからだろう。

当然だが、僕自身は全く錯覚とは思っていない。むしろ、彼女の卒業発表の言葉を読んで、初めて彼女のVtuberとしてのガワからはみ出た部分――「魂」に触れた気がしている。“演者”出雲霞は、「物語」に殉ずることにしたんだな、と。

序盤にある一文、

物語にとっては、どれだけ周りの人が「変わってもいいよ」とか、ありのままの私を認めてくれても、誰よりも私自身がそれに耐えられませんでした。

女子中学生の「出雲霞」が自身をAIだと気付くまでの物語が終わっても、それでも活動を続けていた間の苦悩を告白している中で、彼女が使った「物語」という言い回しは、間違いなく「演者」、あるいは「脚本家」としての吐露だ。物語には幕開けと幕引きがあるものだ。じゃあVtuberは? 配信者は?
出雲霞という一度終わりを迎えた物語を背負って変化しないように活動を続けていく。その難しさを彼女は言葉を選びながら、自分の口から語っていった。そして出した結論は、出雲霞という物語の完結だったのだ。

SEEDsという物語の体現者たち

にじさんじは18年末まで3つから4つのグループを内包した集団だった。
一期生、二期生と呼ばれる個性溢れる人たち「(旧)にじさんじ」。
その後にデビューしたゲーム配信が上手いひとたちを集めた「にじさんじゲーマーズ」。
短命に終わった男性グループ「VOIZ」(2018年6月8日デビュー、同年8月9日解散)。
そして最後にデビューしたグループ「にじさんじSEEDs」の一人として、出雲霞はデビューした。

SEEDsにはグループとしての特徴に演劇性がある。元はチャレンジ枠として設定され、それが名前(SEED=種子)にも現れているこのグループは、「研修生」という扱いでにじさんじに入った。諸先輩たちとは違う配信を模索するなかで彼らが図ったのは茶番やボイスドラマといった、これまでとは違う、演技力に振った内容だった。

しかし、それはグループ統合や各Vtuberの配信活動の変化などによって少なくなっていく。SEEDs以外でも見られた声劇もしかりだ。なぜか。

シンプルに所感をいえば、配信映えしなかったのだろう。

「配信」における参加者は、配信している演者だけではない。コメントというかたちで参加してくるリスナーを意識しないわけにはいかないのだ。長々と続く茶番とボイスドラマの生放送は、コメントという配信者の都合で簡単に無視されるアピールのみを伝達手段に持つリスナーにとって、ライブ感の意味を揺るがすものだった。

では、この活動が全くの無駄だったか――といえば、決してそうではない。にじさんじのVtuberが定期的に販売するグッズのひとつ、シチュエーション・ボイスでSEEDs出身の飛鳥ひなが数多くの脚本を手がけていることは知られている。ボイス販売はSEEDsが展開してすぐに始まった試みのひとつだが、現在ではVtuberの活動の一つとして認知されている。
演技力が関わるこのグッズ展開が長く続いたことには、SEEDsという演劇性の高いグループがいたことも大きく関係していると思う。

一方で、SEEDsは大量に加入したこともあってこれら統合前のグループ区分では最多の人数を有し、その分、卒業した者が多いことも残念でならない。

「物語」はリスナーと共にある

演劇性の高さは、時に徒となるのではないか。それが今回の卒業に際して得た一つの気づきだった。“ガワ”――キャラクターというVtuberならではの制約に忠実であろうとすればするほど、息苦しさを覚えてしまうのではないだろうか。

Vtuberの「物語」は、現在のにじさんじにおいて成長と同義であり、それは変化と言い換えることが出来る。2Dの存在が3Dになり、その3Dで出来ることを拡大させていく。これが今のにじさんじの指向だ。

そしてそれは、決して独りではできない。配信というたった独り、パソコンに向かって喋り続けることが、様々なメディアを通したリスナーの反応によって確かなものになっていく。その交流が、にじさんじのVtuberを彼らの言う“ライバー”にしていき、リスナーをファンにしていくのではないだろうか。
ライバーの物語に、まだ終わりは見えてこないのだから。

追記

ここまで書いておいてなんだが、最初の、きっかけとなったツイートを見たときに、なぜ現実感が湧かなかったのか、という問いの答えを書いておこうと思う。

出雲霞という物語の終わりを、その中の人の終わりだとは思わなかったから。これに尽きると思う。

出雲霞ではない、新しい姿で、あるいは、違う形で。僕たちは別の「出雲霞」と出会うことが、きっと出来ると信じている。

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