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「大衆になりたくない」と思う人もまた「大衆」であるというジレンマ。



自分の中に何が入っているのだろう、と思って覗き込んでみても、自分の中には何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかき集めてきた断片的ながらくたが、それぞれの繋がりも必然性も、あるいは意味さえもなく、静かに転がっているだけだ。

私自身の性格や他人との接し方も、私の中にもとからあったものではない。

それは、身の回りのいろんな人々の癖や喋り方を模倣して組み合わされたものに過ぎない。

中学校の時のFくん、高校の時のYくんやNくん、そして誰よりも大学で出会ったGくんやDちゃんの、独特なリズムやテンポ、話題ネタ、表情や抑揚を、なかば無意識のうちに真似をし、その「文法」を体得し、自分なりに編集して、やがて自分のなかに沈澱して定着していったものが結果として今の私になっている。

誰でも同じであるが、私の人格もまた、他人のいくつかの人格の模倣から合成されたものだ。
          『断片的なものの社会学』岸政彦



この文章を読んだ時、「はあ、なるほど。」

目から鱗状態であった。


兼ねてより、自分の中にある「個性」に対するモヤモヤをこれほどまでに、的確に表現した本に出会ったことがなかったためである。


2020年、私は趣味で少し被写体をしていた時期があったのだが、(今でも辞めてはいないが)その時出会ったフォトグラファーさんの「大衆になりたくない」の言葉が不意に蘇った。


何の話をしてそんな発言をしたのか、今ではさっぱり思い出せないのだが、

ひと回り年上のそのフォトグラファーさんは、「大衆になりたくない」と話していた。

その時、私は心の中で、「大衆になりたくない、という人もまた大衆であるというジレンマ」に気付いてしまって、少し笑ってしまった。

(勿論、フォトグラファーさんには言ってないが。)


「自分にしかない、かけがえのないもの」

そんな存在があるとするのならば、見てみたい。



「日本人は、同調圧力に屈してしまう。」
こんな言葉をよく耳にする。

周りの目を気にして、顔色を伺ってしまう。

相手にどう思われるのかが気になって仕方ない。



こんな悩みを抱える人、多いのではないか。
(私もそのうちの1人である。)

そんな日本人の傾向に対し、
就職活動に於いて重視されるのは、


「あなただけの強み」「あなたの個性」である。


だが、就職すれば、求められるのは、「協調性」


などと考えると、とても不思議である。


「その人らしさ」をもっているけど、あくまでもそれは協調性を前提に、とは。

なんだか矛盾しているし、第一に都合が良すぎるのではないか。


そんなことを考えているうちに私は、自分の小学生の時を思い出した。


あの頃、クラスの中でダントツ可愛くて、お勉強ができたSちゃんは、当時のみんなの憧れだったキャラクターの髪飾りをつけていた。Sちゃんが、その髪飾りをつけてきた、その日、クラスの女の子の話題は、Sちゃんの髪飾りのことで持ちきり。

翌日以降、Sちゃんとおそろいの髪飾りを買ってつけてくる子は、本当に多かった。

私も、その輪に入りたくて、Sちゃんと同じ髪飾りを買って欲しいと、母にねだったのを今でも覚えている(だが結局買ってもらったのかは覚えていない。)
後々、あんなに欲しかった髪飾りは、結局そのものが欲しかったのではなく、「みんなになりたかった」私の過去なのである。


年末。

東京に住む彼が、私の家に遊びにくることになった。

年に数回しか会えない分、2週間近く京都にある私の家に泊まってくれることになった。

せっかく彼がくるのなら、と私は部屋の掃除をし、同時に新しい服を新調した。

クローゼットがあまり広くないため、これを良い機会に着ない服を断捨離することにした。


モノには、(特に最近服には)こだわりがある分、断捨離は、すぐに終わったが、その着ない服をみて驚いた。


・数年前に、流行した〇〇という形のスカート

・ZARAのセールで買った服

・お気に入りだったが、破けてしまったトップス

・〇〇ちゃんに影響されて買ってみた服


断捨離された服は、どれも所謂「流行」や「誰かに影響されて」買った服ばかりであり、その反面残ったものは、自分で良いと直感的に選んで、思考錯誤を重ねて買ったものである。

ここでも私はただただ、顔の見えない「みんなになりたかった」

個性のない私は
誰かになりたかった。
常に誰かになり続けたかった。

繰り返すが、私には、「私にしかないかけがいのないもの」はおろか「私らしさ」などはこれっぽっちも存在しない。


ただ、誰かになりたかったと過去から、私は自分なりに誰かになることに対し、良くも悪くも「諦観」を持つようになった。



現在、大学2年生の私は、括弧付きだが一般的な大学生の女の子とは少し違うような気がする。

所謂デパートコスメなどには一歳興味がないし、ネイルは爪が重くて少し苦手、女性ものの香水の匂いが苦手で、化粧品売り場に近づけない。一般的な「男性」が少し怖くて、(PTSDのようなものがある)どちらかというと中性的な男性でないとうまく話したりできない。話すのは好きだが、大人数で遊ぶのは苦手、大きな音が好きではないからカラオケやゲームセンターがとても苦痛であること。





所謂「大衆ウケ」する女性になること。
「みんなから愛されること」
これこそが「豊かな」ことであり、
それ以上のそれ以下もなかった自分の「豊かさ」の原点はいつの間にか、誰かになること、いや、誰かになりきることで、その穴埋めがなされていた。


それは、不思議なことに、さらに私を大衆化の波に引きづり込み、顔の見えない誰かに仕立てあげた。
個性が埋没した私を生み出したのである。

こんな私は、「心地よさ」を原点に生きることで、大衆の中に埋もれる顔の見える個人に変わった。

無論、私らしさなど、どこにも存在しない。

Thak you for reading..!!!

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