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あなたが自分らしく生きるのに苦労する理由。



「誰かになりたい。」「でも、誰かになりたくない。」

そんな生きづらさを感じることは、日常で多い気がする。


あの子みたいに笑えれば

あの子みたいに泣ければ

甘え上手なれてたら

今もそばに居られたの?


Back number 「fish」より




「ひらひらのスカートが履きたかった。」


ある時、こんな話を読んだ。

このブログの主は、自分が大好きな「かわいい」を身に纏うことで、幾度なく性被害に遭ってきたようだ。

「自分が自分らしくいることは悪なのだろうか。」

「もう誰かになりたかった」
「誰かになってしまえばよかった」

そうしたら、こんな目に遭わなかったのかもしれない。


この言葉がとても印象的で、読んだ瞬間から忘れられない。

自分が自分らしく居ることは悪なのだろうか。

この世界に「個性」や自分にしかない「かけがいのないモノ」を持っている人は少ないと思う。


☝︎詳しくは、上のnote を読んで欲しい。


ただ、自分らしい「かけがえのないモノ」を取り立てて持っていない人は、
どうして「誰か」になりたいのだろうか。


「誰かになりたい」と思うことは、きっと「誰かにならなければならに理由」があるのだと思う。


だって、かけがえのないモノを持っていなくたって、私たちは、「誰か」になる必要は、果たして本当にないのではないか。

私たちの中にある「誰か」とはなんだろうか。
私たちの中には常に正解の誰かがいるのではないか。
それは、漠然としながら、けれど、明確な「誰か」として立ち現れている。

きっと私たちの中にある固定概念が正解の「誰か」という虚像を脳内で作っているのかもしれない。


「自分が自分らしく生きることに苦労する理由」
がそこにはある。私はこう思う。



「あの子になりたい。」

以前長い間付き合っていた彼氏に別れを告げられた時、同時に彼は、「他に好きな人がいるんだ」と言った。

泣いた。ただただ悲しかった。

当時まだ彼のことが好きだった私は、「その子になったら、まだ愛されたの?」

上っ面だけしか知らない「あの子」を私は勝手に比較して、「ああ、あの子は気を使えて、優しくて、たくさん友達がいて、面白くて、おしゃれで、」などと考えて、あの子にあるモノがただただ羨ましかった。


その日から、私は「あの子」になることにした。

「あの子」になることが私の中で、目標になった。


私にないモノを持っていた「あの子」になったら、私も「あの子」のように愛してもらえる。

「あの子」のように幸せになれる。


と思った。


けれど、当たり前のように、
それは何も変化をもたらさなかった。


「tomato, tomato」

よく海外ドラマを見ていると、「tomato」は英米2通りの発音が聞こえてくるが、結局指しているのは一般的に言う真っ赤なトマトである。意味はそこから転じて、結局本質的にはなにも変わらないということである。



そう。

私は、どうしたって、「あの子」にはなれなかったし、「誰か」にもなれなかった。

本質的に自分という人間は変わらなかった。

代わりに私にもたらされたのは、「誰かにどうしても慣れなかった焦燥感」と「誰かにならなければ自分はだめだ、という自分を認められない自分である。」


結局私は「何も得られなかった。」



高校の時に、絶交した友人がいる。
元は、とても仲が良かった。もう絶交した理由は詳しく覚えてない。

ただ、その人がまだ友達だった時、
彼女が、私に何度も言った言葉だけは覚えている。

「〇〇は良いよね、目が大きくて。」

「〇〇は良いよね、お父さんとお母さんの仲が良くて」

それまでずっと「誰かに」になりたかった私にとって、これはとても新鮮だった。

ずっと「誰か」になりたい私が、その友人にとっての「誰か」になったからだ。
ずっとずっと誰かになることを夢見てた私が遂に「誰か」になれた瞬間だった。


私の中にあった「誰か」の虚像が崩れた。


だって今まで、私にとっての「誰か」は、みんなに愛されるための「何か」を持っていたから。
「何か」を持ち合わせない不完全な私「完璧」な誰かになんてなれる訳なかったのに。





思えば、この世の中には「誰かにならなければならない」というメッセージが多くあると思う。「誰か」は常に、愛されるための「何か」を持っていて、それを持っていない人は決して「誰か」になれないから愛されない。



太ってしまったせいで、ムダ毛の処理をしていないせいで、もう女として見られないと言われ、彼氏に振られた女の子が描かれたYouTubeの広告。

「モテる女の子の特徴」と題して、投稿されるインスタグラムには、「二重」「痩せている」「美白」などの言葉が並ぶ。

化粧をちゃんとしないと、だらしない。女ではない。




愛される「誰か」になるためには、「誰かになる要素」があるようだ。



でも、高校生の時の私は、紛れもなく友人にとっての「誰か」だった。

「誰か」になることができた。



人は確かに「誰か」になることを望んでいる。
ただ、それは本当に「誰かにならなければならない」のだろうか。

だってもしかしたら、あなたは、既に「誰か」にとっての「誰か」なのかもしれないから。



「誰かになりたい」「誰かにならなければいけない」

あなたが自分らしく生きるのに苦労する理由は、きっとあなたはもう「誰か」にとっての「誰か」だからではないか。
だから、完璧な「誰か」になんてきっとなれない。

完璧な「誰か」なんて、虚像だ。


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