まどろみのなかで

滅多に泣かないけど、たまに昼寝から目覚めたら涙が溢れてることがある。

嬉しいと同じだけの悲しいが、心から溢れて止まらない。なんで生まれてきてしまったんだろうか。

人生は出会いと別れの連続。縁というのは、出会えた喜びの価値を別れた悲しさであと払いする感覚にあるけど、本当はみんな、出会った瞬間に喜びと悲しみを同時に感じてるんだ。いつかこの人たちとお別れする日がくるってことを。

誰かと出会えたこと / 誰かとお別れすること、生まれてきたこと / 死にゆくこと、本当はこれらは全部人とかモノの中、ただ一点に同時に存在する。たまに白昼夢のなかで俺はそのことに気付いて、どうしようもない淋しさに打ちひしがれてる。

それが俺にとっての原罪なんだ、きっと。


いつも歩く道も見るもの全てがいつもより鮮やかに思える。聴こえる音も音楽もいつもより鮮明に聴こえる。全てがいつものことなのに、全てがはじめてのことのように感じる。

ある程度住み慣れた街でも右往左往してしまう俺のこころは、子供時代によく似たそれだった。恐る恐る歩き出してみるあの感覚。

感受性が最大まで高まったら、まあ生きづらいだろう。世の中は心無い言葉で溢れている。悲しいニュースで溢れている。怒号と喧騒で溢れている。俺含め俺たちのほとんどはきっと自分の感受性にナイフを刺して、わざとマヒさせてるはずだろう。じゃなきゃ生きられない。

でも、音楽を聴いたり芸術や映画を観たりすることは、きっとそういう「原罪」を取り戻すためなんじゃないかな。なんてふと思った。


結局その日の夜も、また彼女に「わからない」と言われて。人間としての常識はあるのかって言われて。俺を理解しようとするのに疲れたって言われて。何も理解されようと思って生きてるわけじゃないけど、面と向かってそういうこと言われたら、やっぱショックは受ける。俺はそう生きていく運命なんだから。

結局俺は、今日も明日もバケモノだろう。少なくとも、生きていく上で「普通」の人間が備えるであろう人間性がすっぽり抜け落ちている。そしてやっぱりその感覚は日に日に増す一方だ。

大学を辞めたら救われるだろうか、引きこもりになれば救われるだろうか、地元に帰れば救われるだろうか、芸能界に入れば救われるのだろうか。


まどろみのなかで、俺が背負わされてる運命に、ひさびさに気付いたよなってはなし。

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