小説「死ぬ準備」
「死ぬ準備」を書き始めた動機
「死ぬ準備」を書こうと思いついてからもう十余年になる。その間、縁起でもないからと思い止まったり、また書き出したり、そんなことの繰り返しで、気が付いたら十余年経っていた。そうかあ、85歳かあ。
中身はばらばらだ。死んだ妻への思いなどだ。その「死ぬ準備」を猛然と書きたくなったのは、あの、三月十一日の東日本大震災である。
でも突然の思い付きなんてすぐ忘れる。それからだって進んでいない。本音を言えば書きたくない。気が重い。ブログに差しさわりのないことを書いている方が楽しい。
人間都合の悪いことは見たくない。しかし現実はどんどん辛い方向に向かっている。今後も大事故は起きるだろう。コロナも出現した。景気は良くならない。首都圏の放射能も高い。しかし誰も放射能なんか口にしない。次から次へと新しい話題が現れる。テレ・ワーク繁盛で大企業本社を東京から移転し始めている。敏感に反応して地価は下がり始めた。と思ったら、あざとく中国の不動産投資家が動いている。
なに?地価が騰がってる?もう先は全く読めない。
家庭でも社会でも人間関係は大変だ。経済事情に左右される。定年退職した夫が再就職出来ないと家庭での居場所がない。女に比べて生き方が下手だから、つい妻にまとわりついてしまう。
そして面倒がられる。ますます心が寒くなる。
人間誰も先のことは分からない。いつどんなことに巻き込まれるかしれない。そんなことを考えているとますます書くのが嫌になる。だからこそ伝えるべきことは伝えて置かねばならないのに。書き残しておくべきことはいっぱいある。喋るでもいいじゃないか。
なんとなく死期が迫っているという予感がある。年齢的なものがそうさせるのだろう。生き物は皆そうやって死期を感じる。義父は八十歳で死んだが、死ぬ二年前くらいから手帳にびっしり何かを書き始めたし、五十年来の友人は腎臓病で入院して、退院してから自分史みたいな小冊子を二冊もだした。自家製の文集みたいなものだが立派な「死ぬ準備」である。
二冊とも送ってよこした。
そんな風に人は誰も時が来れば、どんな形にしても「死ぬ準備」を始める。単に身辺整理程度のものであったり、なんとなくお別れ旅行であったりする。
思えば妻の突然死はショックだった。難病を患って入退院を繰り返していた妻が何か言いたげな素振りをみせたことがある。人間の感覚器官の中で、最後まで機能しているのは聴覚だから、妻には、ベッド脇で交わされる家族の会話が聞えていたのだろう。
ああ、自分は長くないな。そう思ったかもしれない。
「ママは敏感な人だから、ベッド脇で話すのはやめて」と次女が見舞いに来た祖母や姉を制したが効果はなかった。妻は、家族に、なにかを伝えたかったのだろう、何度も目配せしたが私以外は誰も気づかなかった。
私は周りに遠慮して妻に顔を近づけることをしなかった。
そして突然妻は死んだ。
一週間、器官挿管で口を塞がれていたから唇が麻痺して思うように動かなかったろう。仮に唇は動いても言葉にならなかっただろう。
そんな苛立たしさもあったのか妻は涙を流した。涙が頬を伝って流れるのを私はみた。妻が死んで、遺体を葬儀場に運んで、冷たくなった妻の顔を触れた時、涙の跡がまだ埃をかぶって残っていた。
妻には去りゆくさまざまな思いがあったのだろう。その一部でも伝えたかった。しかし出来なかった。そのことがどんなに辛かっただろう。だから、肝心なことは前もって伝える訓練をすべきだ。防災訓練みたいなものだ。そうすれば助かる。死ぬ準備も同じだ。
しかし簡単にはいかない。
どんなことから書き出すべきか。具体的なイメージが湧かない。遺書や遺言書みたいにすべきか。図書館で参考になる本を漁った。おなじ「死ぬ準備」というタイトルの本もあった。ノンフィクション作家が、ホスピスを取材してまとめた本だ。逝く人間と送る立場の医師や看護師の思いが書かれていた。
女性司法書士が書いた本もある。妻の立場から怒っている。黙って逝かれるくらい迷惑な話はないわよ。。怒りが文章になっている。
他は弁護士が書いた相続本である。
遺せる資産があればいい。なければその前に揉めるだけだ。
「死ぬ準備」をするって大変なのだ。まず勇気がいる。冷静さもいる。誰だって自分の死など考えたくない。こんなことが本当になったら困る。嘘から出た真という諺もある。思いつきで始めたことが、現実になってしまうこともある。
そう考えると怖くなる。 つづく
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満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。