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1杯、230円のかけそば

 よく行くそば屋で、かけそばを食べた。
 会計の際、店のおばさんがすまなそうに言う。
「かけそばねえ、230円が来月から270円に値上がりするんだわ。ごめんなさいねえ。ほんと、不景気って嫌だわあ」
「そうなんですか。仕方ないですよね」内心、がっかりした。おいしくて、値段も安いのがこの店の売りだったのだから。
 今月はまだ始まったばかり。それなら、値上がりする前に食べまくってやろう、わたしは決心した。
 次の日の昼、さっそく食べに行く。
「あら、むぅにぃちゃん。今日も来てくれたの。いらっしゃい。かけそばでよかった?」
「はい」わたしはうなずいた。何しろ、230円で食べられるのは今月いっぱい限りなのだ。

 翌日も、翌々日も、わたしはかけそばを食べに出かけた。
「ここんとこ、毎日来てくれるじゃないの。そんなに好きだったっけ、そば」おばさんは意外そうな顔をする。以前は、月に2度か3度だったことを思えば、そう尋ねたくなるのも当然だ。
「ここのそば、本当においしいんです。ゆで加減とか、つゆの濃さとか」
「まあまあ、むぅにぃちゃんったら。うちはただの二八そばなんだけどねえ」そう言いつつも、まんざらではない笑顔で答える。
「かけそばをお願いします」飽きもせず、わたしは注文した。
「はいはい」

 親友の中谷美枝子がお昼を誘ってきた。
「もしもし、むぅにぃ? たまにはダリーズでも行かない?」
「あ、ごめん。今日も近所でおそばにするから」
「あんた、このところそればっかりじゃないの。あたしだったら、もういい加減、見るのも嫌になってるけどなあ」
「でも、来月から値段が上がっちゃうんだよ? 230円で食べられるのは今だけなんだし」わたしは言い返す。
「値上げっていったって、大したことないんでしょ? だったら、来月からはその代金で食べればいいだけ。何も、店がなくなるわけじゃなし」
「そうなんだけど、安いうちに食べておきたいじゃん。そんなわけだから、また来月ねっ」そう言って、電話を切った。
 値上がりすると知った以上、いま食べないと損をする気がするのだ。

 下旬になり、値上がりまでいよいよあと1週間余り。
「いらっしゃい……よく、毎日続くねえ、むぅにぃちゃん」そば屋のおばさんも、しまいにはあきれ顔で迎えるようになっていた。
「だって、もうすぐ270円になっちゃうんだもん」わたしは言う。
「そば粉が今年はできが悪くってねえ。あと、つなぎで使う小麦も2割増しになっちゃったのよ。異常気象ってやつかねえ。この調子だと、来年はどうなることやら」やれやれと首を振る。
 何よりも心配なのは、老舗のこのそば屋が店を畳む、などと言い出さないかということだった。それに比べれば、多少の値上げくらいどうってことはない。
「高くなってもいいですから、店を続けて欲しいです」わたしは切実な思いを打ち明けた。
「ありがとね、むぅにぃちゃん。ま、なんとか頑張っていくつもりだよ。幸い、うちの亭主はまだまだ元気だし、今年20歳になる息子だって、後を継いでくれるって言うしさ」

 連日のそば屋通いも、ついに今日まで。明日からは新しい月が始まり、かけそばが270円になるのだ。
「あーあ、明日から値上げかぁ」そばをすすりながら漏らす。
「あっはっはっ、そんな顔しなさんな。また、月に何度かは来ておくれよ。値上げした分、腕によりをかけるからさ」そば屋のおばさんは、そう言って笑った。
「ええ、来ます。それに、いままでがほかの店と比べて安かったんだから。そう思えば、別に何でもないですよね」
「そう言ってもらえると、うちとしても大助かりだね。今夜は家中総出で、品書きやらを書き換えなきゃならないよ。もしかしたら、1つぐらいは書き損じがあるかもしれない。そんときゃ、知らせとくれよ。ちゃっちゃと直しちまうから」

 月が明け、久しぶりにファスト・フードでも行こうかな、と思っていた。
 部屋を出ようとしたそのとき、ドアの向こうでぞろぞろと足音がする。開けると、中谷、志茂田ともる、桑田孝夫が顔を揃えていた。
「あれ、みんなどうしたの?」
「おう、むぅにぃ。うまいそば屋を知ってるんだってな」と桑田。
「ぜひ、わたしたちも連れて行っていただけませんか?」志茂田が後を継ぐ。
「ほら、あんたが毎日行ってたあの店よ」さては、中谷がみんなに話したのか。
「いいけど、今日から値段が高くなったよ。かけそばが1杯、230円から270円」わたしは言った。
「それだって、十分に安いじゃないの」中谷は気にもしない。
「ええ、駅の立ち食いそばだって、300円は取られますよ」
「いいから、早く行こうぜ。腹が減って死にそうだ」桑田がせかした。
 しょうがないなぁ。ハンバーガーはまた今度にしよう。

 引き戸を開けて入ってきたのがわたしだと気づくと、おばさんは驚いた顔で言った。
「あらまあっ、今日から値上げだってこと、忘れちまったのかい?」
「あの、今日は友達を連れてきました」わたしの後から、次々と入ってくる。
「おや、そうだったのかい。いらっしゃい、さ、空いてる席に座っとくれ」
 わたしは品書きも見ず、いつも通りかけそばを頼んだ。
「あたしはエビ天そばにしようっと」と中谷。
「じゃあ、わたしもエビ天そばを」志茂田が便乗する。
「あっ、おれもそれにするわ。エビ天そば。これで300円なんて、めっちゃ安いぜっ」桑田は感心しながらうなずいた。
 わたしはびっくりして、お品書きを見直す。かけそばが270円、それにエビ天が載っかって300円とあった。たったの30円しか違わないじゃん。

「そば粉は高くなっちゃって大変だけど、エビは今年、すごく安いのよねえ。ほとんどただ同然で仕入れてるもんだから」おばさはんはこともなげに言う。
 知らなかった。それなら、ずっとエビ天にしていればなあ!
「どうしました、むぅにぃ君? そんな難しい顔などして」志茂田が気遣って聞いた。「あなたもエビ天そばにすればよろしいのに。かけそばなど、ただ寂しいばかりじゃありませんか」
「そうだぞ、むぅにぃ。値段も大して変わりゃしねえのによ」桑田まで同調する。
「か……かけそばが好きなんだよね」
 そう答えるよりほかはなかった。

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