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紫の壷

「こんなものしかないけど」カップ入りケーキとサイダーを持って、部屋に戻る。桑田はクッションの上であぐらをかいたまま、部屋の隅っこをじっと見つめていた。
 テーブルにケーキとグラスを置くと、わたしはその向かいに座る。

「なあ、むぅにぃ」桑田は顔をあちらに向けたまま、ぼそっと言った。
「うん?」
「あの変な壺、前からあったっけ?」
 桑田が顎で示した場所を見るが、何もない。
「どの壺?」
「どれって……。角に置いてある、あれだよ。紫色をした、おかしな形の」
「何もないじゃん」わたしには何も見えなかった。「また、騙そうとしてる?」
「お前、ほんとに見えてないのか?」桑田は立ち上がり、壁のそばに寄る。「ほら、ちゃんと触れるし、確かに存在してるぜ」

 わたしも桑田のところへと行き、試しに手を伸ばしてみる。けれど、空をつかむばかりだった。
「もう、いい加減にからかうのはやめない? なんにもないじゃん」少し腹が立ってきた。
「ほんとだって、あるんだって」桑田には珍しく、真顔で言い返してくる。
「でも、見えないんだけど。触れもしないし」
「叩いてみるな」桑田はグーで、何もない場所を叩く真似をした。
 クワン、クワン、と奇妙な音が響く。
「えっ、どうして?」わたしはぞくぞくっと寒気を覚えた。
「なっ?」これでわかったろ、と言いつつ、桑田もまた気味悪そうな表情を浮かべる。

「どんな形の壺なの、それって」わたしは聞いた。
 桑田はうーん、と考え込んでしまう。壺をなで回したり、持ち上げて底を見る格好をするのだが、説明に足る情報を得られないようだ。
「紫色ってことは話せるんだ」桑田は考え考え、伝えようとする。「でもよ、形がどうもはっきりしない。一輪挿しのようだが、ヤカンのようにも見えるし……」
「何それ。全然、違うじゃん」わたしは呆れた。
「そうそう、もう1つ確かなことがあった。口と底とがつながっていて、ループになってるな。水は入れられるが、出すところがない」

 ますます訳がわからなくなる。
「スマホで写真とか撮れない?」思いついて、そう提案してみた。
「そうか。やってみよう」桑田はスマホを取り出すと、パシャッとシャッターを押す。「どれどれ……。なんだこりゃ?」
 わたしは撮った映像を見せてもらった。
 紫色をした無数の影が、重なり合うようにして写っている。人の行き来する交差点を、多重露出にでもしたようだ。

 わたしの部屋にあるという「紫の壺」は、ついにこの目で見ることはなかった。見えていないだけで、まだそこにあるのかもしれない。
 そう思うと、ひどく落ち着かない気持ちになった。

 ある日、桑田に呼ばれて家に遊びに行く。
 華道を嗜む彼の母の見立てだろうか。玄関のラックには、紫色の壺がさりげなく置かれていた。
「ようっ、上がれよ」桑田が廊下の奥から手招きをする。
「ねえ、桑田。この壺、ちょっと風変わりだけど、やっぱり生け花用?」
「へっ?」
「だから、このラックの上の紫の壺」わたしは指差した。
「どれ? 何もねえけど?」
 口と底がつながったその壺は、どうやらわたしにしか見えていないようだ。

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