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蚤の楽団

 南極で世界最小の楽譜が発見された。サンプリングした氷分析していたところ、米粒大の印刷物が複数、確認されたのだという。
 全て集めてページ順に並べてみると、驚くべきことにオーケストラのスコアであることが判明したのだ。
 
 スコアは音楽アカデミーへと送られ、研究者らが日夜、虫眼鏡片手に調査を続けた。
 作曲者はモーリス・ラヴェルで、タイトルは「ニッカーボッカー」。どうやら、「ボレロ」とのペア曲だったらしい。総譜50段もの大編成である。
 コーダには小さく日付も書かれ、そこから1937年12月20日に完成したことが明らかとなった。
 
 クラシック協会主催のもと、この曲の演奏会が開かれることに決まる。
 しかし、問題が1つあった。
「こんな小さな楽譜など、いったい誰が演奏できるのだ?」
「やはり、なりの小さな演奏家でないと不可能ではないか」
「そんな小さな演奏家など、果たしているのか」
 
 世界は広いものである。ついに、「ニッカーボッカー」の演奏にうってつけのオーケストラが見つかった。
 ノミ達が奏でる、その名も「ノミの楽団」だ。
「わが『ノミの楽団』こそ、この曲にふさわしい。ラヴェルの最後の作品、極上の演奏で披露させていただきましょう」楽団長は胸を張る。
 
 初演は、池袋演芸場に決まった。普段はイス席なのだが、今回の演奏会に合わせて、枡席へと並べ換えてある。何しろ、目を凝らさなくては見えないほどの楽団だ。イスにかけて見下ろしていては、首が痛くなってしまう。

 歴史的な演奏会を見逃すまいと、わたしは池袋に駆けつけた。
「ボレロが前編、ニッカーボッカーが後編ってことでいいのかな。きっと、リズムが特徴的な管弦楽曲に違いない」最前席にどっかりと座り込んで、演奏が始まるのをいまや遅しと待ちわびる。

 燕尾服姿の指揮者が、袖からかしこまって現れた。その後ろからは、お盆を持った黒子がついてくる。黒子は、お盆を舞台の中央にそっと置くと、すごすごと引き下がっていった。
 どうやら、あのお盆にノミの楽団達がいるらしい。

 わたしは目を細めて、お盆の上をじっと見つめた。他の客達も、背や首を伸ばして、一目その姿を捉えようとざわつく。
 よく見ると、黒い芥子粒のようなものが集まっていた。すぐそばで観察するわたしでさえこうなのだから、後ろの者は虫眼鏡つきのオペラグラスでもなければ無理だろう。

 指揮者が客席に向かって一礼をする。いよいよ、演奏の始まりだ。
 お盆に向き直り、さっとタクトを振り上げる。
 かすかに聞こえた。まるで、蚊の鳴くような音が。もっとも、演奏者は蚊ではなく、ノミだったけれど。
「ちっとも聞こえねーぞっ!」あちこちから罵声が飛ぶ。
「ほんとにそこにいるのかっ?」
 当然の顛末である。主催者も拡声器を置くなどして、もうちょっと工夫すればよかったのに。

 指揮者はそんな野次などお構いなく、さっそうと演奏を続ける。ときには力強く、またときには繊細に、喧噪で音こそ聞こえなかったが、さぞや素晴らしい曲なんだろうな、とわたしは想像を巡らせた。
 ふいに指揮棒が止まる。休符だろうか。いや、それにしてはばかに間が長い。

 指揮者は困惑した顔でこちらを振り返った。
「たったいま、わたしどもの楽員は、お客様の鼻息で1匹残らず、吹き飛んでしまいました」

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