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糸くず

 志茂田ともるの家でビデオ・ゲームをしているときのことだった。
 コントローラーをブンブンと振り回し、夢中になって敵を倒す桑田孝夫の襟元から、糸くずが飛び出ているのに気づく。
「桑田、ゴミがついてる……」わたしはごく自然にそれをつまんでいた。ところが、引っ張っても引っ張っても伸びてくる。
「おう、サンキュー。取れたか?」振り向きもせず、桑田が言った。
「それが、どんどん出てくるんだけど」
「おい、むぅにぃ。お前――」咎めるような目をこちらに向ける。「ジャケットのほつれを抜いちまってんだろ? やめてくれよな、高かったんだぞ、これ」

 わたしはつかんでいた糸を思わず離した。
「あっ、ごめん。ちょっと、脱いで確かめてみたら?」
「ほんとに、余計なことばっかしやがって」そう言いながら、ジャケットを脱ぐ。
 けれど、どこもほつれた様子はなかった。
「では、シャツのほうかも知れませんよ、桑田君」と志茂田。
「ちょっと、おれの首んとこ見てくれ。どうなってる?」
 わたしはシャツの襟をめくって、糸が続いている先を調べた。
「どこがほつれてるかわかった」
「やっぱ、シャツか?」
「ううん、首の後」わたしは答える。
「なんだ、やっぱただの糸くずか。なら、さっさと取ってくれ」
「付いてるんじゃなく、首から生えてるよ、これっ」
「おやおや、本当にそうですね。まるで、毛でも生えるように出てますねえ」志茂田は顔を近づけて観察する。

 桑田は首の後をさすって確かめた。
「毛じゃねえの?」
「そうかなぁ。もう1回、引っ張ってみていい?」わたしは確認する。
「ああ、引っこ抜いていいぞ」
 糸をつまむ。これが本当に毛髪なら、皮膚ごと引っ張られるはずだった。ところが抵抗もなく、スルスルと出てくる。
「ねえ、桑田。痛くない?」
「全然。それよか、ちゃんと引っ張ってるか? 何も感じねえぞ」
「これは奇っ怪ですね。いくらでも出てきますよ」志茂田は目を丸くした。「奥に糸車でもあるかのようです。いったい、どうなってるんでしょうか」

 わたしの手の中で、細い銀色の毛玉ができていく。なんだか心配になってきた。
「もう、やめとこ? 体に悪そうだよ。ハサミで切っちゃおうよ」
「いいから、どんどん引っ張ってくれ。体からおかしな糸がヒラヒラ出たままなんて、気持ち悪くてならねえ」
「これってさ、もしかすると神経じゃないの?」以前どこかで聞いた、気味の悪い話を思い出す。「ほら、糸くずだと思って抜いちゃったら、失明したってあれ。確か、視神経だったんだよね」
「それは都市伝説ですよ、むぅにぃ君。それに、首の後ではなく、耳たぶじゃなかったでしょうか?」志茂田が訂正した。
「糸を貸せ。おれが自分で抜くっ」桑田は短気を起こして、わたしから糸の端をつかみ取ると、スッスッと引っ張る。みるみる、糸くずの塊が大きくなっていった。

 桑田の首筋をじっと見ていたわたしは、あることに気づく。さっきまで、肌から直接糸が突き出していた。それがいまは、小さな穴になっている。
「桑田っ、ちょっと待って。引っ張るのやめてっ!」慌てて止めた。
「なんだ、どうした?」
「首の後、穴が空いてきたよ。だんだん、広がっていくみたい」そう説明する。
「何いっ?!」
 志茂田も顔を近づけて観察した。
「どれどれ、あれま、本当ですね。桑田君、あなたの体そのものがほつれてきているんですよ」
「やっぱ、切っちゃおうよ。首の後にポッカリ穴なんかあったら、かっこわるいじゃん」
「うん……そうだな。なら、できるだけ短いとこで切ってくれよ」あきらめて、糸くずを切ることに同意した。

 志茂田はペン立てからハサミを取って、わたしに渡す。
「じゃあ、切るよ。じっとしててね」生え際ぎりぎりにハサミを当てて切ろうとした。「あれっ?」
「どした?」桑田が聞く。
「切れないんだけど」わたしは、チョキチョキと何度も繰り返した。細すぎるのか、丈夫にできているのか、どうしても切ることができない。
「待ってくださいよ。もしや、これは――」志茂田が考え考え言った。「そうですよ、間違いありません。これはスーパーストリングスですねえ」
「何それ?」桑田とわたしは、同時に首を捻る。
「物体を構成しているといわれる、振動するひものことですよ」
「物質って、原子でできてるんじゃなかった?」わたしはきょとんとした。確か、物理の授業ではそう習ったはず。
「そうだぞ。ひもってなんだ。そんなもんでできてるわきゃねえだろ」桑田など、からかわれていると思ってムキになった。

「別にふざけているわけではありません」志茂田は真顔で答える。「いいですか。原子核は極小です。10のマイナス12乗といいますから、電顕ですら見ることはかないません。『ひも』はそれよりももっと小さく、その1千億分の1のそのまた1千億分の1より、まだ小さい――」
「お願いだからやめて。そういう話聞いてると、なんだか頭が痛くなってきちゃう」わたしは頼んだ。
「で、どういうことなんだ?」桑田は、さっぱりわからん、という顔をする。
「あなたから出ているのは、『あなたを構成しているひも』だということですよ。不運にも、何かの拍子にほつれてしまったのでしょう。調子に乗って引っ張り続ければ、あなたという存在がこの世からきれいさっぱり、失せてしまいますよ」
「そりゃあやばいな……」桑田は青くなった。「おれはどうしたらいい?」
「その糸、また押し込むってできないかなぁ」わたしはそう提案する。
「そうですねえ、どうしたって切ることができない以上、それしか方法はありませんものね」

 さんざん苦労して、首に空いた小さな穴の中に、もつれた糸を無理やり押し込んでみる。超極小なので、元通り繕う、というわけにはいかなかった。首の後ろがポッコリとお団子になってしまったけれど、それは仕方がない。
「最後にバンソウウを貼って、と。はい、これでおしまいっ」わたしは穴を塞いだバンソウコウをよく揉んで、剥がれないようにした。
「桑田君、くれぐれも注意しておきますよ。その糸を、うっかりどこかに絡ませないことです。そんなことにでもなったら、ほどけたセーターのように、たちまちバラバラになってしまいますからね」
 志茂田は、しっかりと釘を刺すのだった。

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