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ミカンの皮

「1番線に各駅停車、新宿行きが参ります。危ないですから、黄色い線の内側におさがり下さい――」喧噪の中、構内アナウンスが流れてきた。
「ねえ、むぅにぃ君」ホームの黄色い点字ブロックを見つめながら、志茂田ともるが声をかけてくる。「いったい、『内側』というのはどちら側なのでしょうね」
「えっ?」思わず、聞き返してしまった。この古い友人は、わたしの何十倍も読書をこなし、さらに的確な判断を下すことで知られている。その彼が、いまさら何を言い出すのか。
「いえ、もちろん、わかってはいるのです。この場合、われわれ乗客が主体なわけですから、ホームが内側であることは」
「ああ、ふざけて言っただけかぁ」ふうっ、と胸をなで下ろす。志茂田の頭が、どうかしてしまったのかと焦った。

「ふざけたつもりはありませんよ。アナウンスを聞いた瞬間、おやっ? と思ったのです。『危ないですから、黄色い線の内側におさがり下さい』というセリフの中に、主語は入ってませんね? そこなんです。『誰』から見て『内側』なのか。人か、電車か。人であれば、当然、ホームが内側になるわけですが、電車に対して語りかけているのだとしたら、内側というのは線路のほうを指すわけですよね?」それだけのことを、志茂田は真顔で語る。
「そんなの決まってる。アナウンスって、お客さんに向かって言ってるんだから、なんの説明も要らなくて、ホームが内側なんだよ」わたしも、いつしか本気で答えていた。多少ずれた部分を備えながらも、大事に守ってきたわたしの中にある常識。それが、志茂田のこの奇妙な理屈によって、脆くも崩れてしまいそうな気がしたのである。
「そうでしたね、むぅにぃ君。あなたを混乱させてしまって、申し訳ありません」志茂田はにこやかに話しを打ち切った。

 電車が到着し、わたし達は乗り込む。新宿で、桑田達と待ち合わせをしていたのだ。
「なんて名前の喫茶店だっけ?」つり革にぶら下がりながら聞く。
「椿屋ですね。とても落ち着いた感じのする談話室ですよ」
「でも、喫茶店って、どこも落ち着くものじゃない?」
「まあ、たいていはそうでしょうねえ」志茂田は認めた。「ですが、中にはひどいところもあるのですよ。テーブルについて、一口コーヒーをすすったとたん、逃げ出したくなる。そんな店をわたしは知っていますがね」
 いったい、どんな喫茶店なんだろう。
「コーヒーがまずかったってこと?」
「いえいえ、味はまあまあでした」と志茂田。
「じゃあ、何が悪かったっていうのさ」
「それがですね、テーブルの上を、黒光りした大きなゴキブリが走り抜けていくのですよ。あれには、さすがのわたしも仰天しましてね」
「うげぇっ」車内だということも忘れ、思わず呻き声が出てしまう。
「振り返れば、壁にも数匹ばかり貼り付いているじゃありませんか。入るときに気付いておくべきでした、装いが不潔な店だということに」 

 新宿駅を東口に出て、ほんの数分歩くと椿屋はあった。
 入り口で店員に待ち合わせの旨を伝えると、奥の4人掛けのテーブルを案内される。
 ポツンと、1人で通しのお茶を飲むのは、中谷美枝子だった。
「もしかして、だいぶ待たせてしまいましたか?」その向かいに腰を下ろしながら、志茂田が声をかける。
「ううん、たったいま来たところ。約束の時間はほら、まだあと5分もある」中谷は腕時計を差し出して答えた。
「桑田はやっぱ、まだ来てなかったか」わたしは中谷の隣に座る。
「今日も、絶対、遅刻してくるよ、あいつ」中谷は断言した。時間通りには決して来ない。それが桑田孝夫の信条らしかった。
「たぶん、『電車が遅れてる』のでしょう」志茂田が含んだような物言いをする。
 中谷の見立て通り、きっかり20分遅れて桑田が現れた。
「わりい、わりい。電車が遅れててよお――」

 全員揃ったところで、ようやくメニューに手が伸びる。
「おれ、ケーキ・セット。ブレンドで」桑田が真っ先に声を上げた。
「あたしも、それにしようっと。ダージリンにする」中谷も便乗する。
「では、みなさんにお付き合いして、わたしも。もちろん、ダージリンを」
 わたしだけ別なもの、というわけにもいかず、
「じゃ、同じのでブレンド」と注文をする。
 しばらくして運ばれてきたケーキ・セットには、ミカンが1個ずつ、おまけとして付いてきた。
「ミカンを食べると、正月を思い出すな」桑田がさっそく、皮を剥き始める。
「お正月、三種の神器だよね」中谷は言い、指を1本ずつ立てていく。「1にコタツ、2にテレビ、3にミカン」
「あんまり食べ過ぎると、爪が真っ黄色になっちゃうんだよね」わたしは、シフォンショコラをフォークで切り分けて口に入れた。

「このミカンで、ちょっとした手品をご覧いれましょう」志茂田がミカンを手に言う。
「やって、やってーっ」中谷の目がパッと輝いた。
「ほーっ、ミカンでかっ?」桑田も期待感を隠そうとしない。
「ミカンのマジックなんて、初めて聞いたよ」わたしは言った。さあ、何が始まるのか。一挙手一投足、逃さず見てやろう。なんとしてでも、仕掛けを見極めたいと思った。
「まず、皮を剥かせて下さい」志茂田はテキパキとミカンを剥き始める。怪しい点はないかと目を凝らすが、変哲もないただのミカンだった。
「さて、お立ち会い。タネも仕掛けもない、このミカンの皮を、いま一度、元通り繕って見せましょうっ!」志茂田が口上を述べる。
「うっそだー、そんなのできっこない」中谷は無邪気に茶々を入れた。
 わたしはといえば、志茂田のことだ、あっと驚く結果が待っているに違いない、そんな確信があった。

 志茂田はミカンの皮を、手のひらの中に隠し、揉みほぐす。
「見事、復元したら、拍手喝采。そらっ!」手を広げて中を見せた。
「おーっ!」わたし達3人の観客は、知らず声を合わせて感嘆する。
 ヒトデそっくりの形に剥かれ、揉みくしゃとなったミカンの皮が、継ぎ目1つない、元の玉に戻っていた。
「いったい、どうやったの?」中谷は目を丸くして聞きたがる。
「すげえな、お前。ほんっと、どうなってんだ?」
「タネは、ご自分で考えてみて下さい」志茂田は復元されたミカンを隣の桑田に手渡した。
「中身は空っぽだ。じゃあ、マジで皮を縫い合わせたってえのか」それっきり、絶句してしまう。
「うーん、これはわからないなあ。だって、手で触って調べてるのに、どこにも縫い目がないんだもん」中谷も降参した。
 わたしは、手の中でミカンの皮を振る。正真正銘、空っぽだった。おまけに、穴1つ見あたらない。
 
「さすが、志茂田。まるで、本物の魔法みたい」わたしはついに観念した。一生かかったって、このトリックは解明できそうにない。
「もう1つ、おまけをお見せしましょう」志茂田は、わたしからミカンの皮を取った。「さて、またまた剥きますよ。ほら、中はがらんどうですね? では、お尋ねします。このミカンの皮の中は、内側でしょうか。それとも、外側だと思いますか?」
「内側に決まってるじゃないの」中谷が、当たり前のように答える。
「そうだぞ。内側だろ、それって」桑田も同じ意見だった。
 わたしはホームでのことを思い出す。主語のない問いかけは、この世の摂理をあやふやなものに変えてしまうのだ。
「あなたはどうですか、むぅにぃ君」志茂田が問いかける。
「まさか、外側……?」自信はないが、そう答える。

 志茂田は静かにうなずくと、ミカンの皮を裏返し始めた。今度は、筋のあるほうが外側に露出している。
 わたしは気がついた。
 この世界はミカンの中に存在するということを。

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