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コンビニに入る

 幼いわたしの手を引いて、父がふらっと入った先はコンビニだった。
「パパ、何か買うの?」わたしは父を見あげて聞く。
「うーん、そうだなぁ……」父はポケットをまさぐり、小銭を手のひらにじゃらっと載せた。「アパート代を払っちゃったからなあ、今日はたぶん、見るだけになっちゃうかもしれんな」
 ああ、やっぱり、とわたしは思った。わたし達はとても貧しいのだ。この日だって、まだ何も食べさせてもらっていない。
「いいじゃん、見るだけだって。見るの好きだよ。食べ物なんて、眺めてるだけでも、おいしい気持ちになってくるし」本当は空腹でたまらなかったけれど、父が気の毒でならず、浅はかな知恵で慰めたつもりになっていた。

「ごめんな、むぅにぃ。そのうち、お金がうんと入ったら、パンでもおにぎりでも買ってやるからな」わたしの精いっぱいの強がりも、父はとっくに気遣いだと見破っている。
 わたしはますます悲しくなってしまい、それを悟られることを怖れ、掴んだ手を強く握りしめた。
「ほら、パパ。バナナなんか売ってる。ずっと前、ママとパパと、みんなで食べたよね。おいしかったねっ」
 おいしかったことだけはしっかりと覚えているものの、それがどんな味だったかまでは思い出せない。それほど古い、けれど数少ない素敵な記憶の1つだった。
「ああ、バナナはうまかったな。お前はまだ小さかったから、1本だってやっとだったっけ」父の口元に、懐かしそうな微笑みが浮かぶ。

「あれ見て。チョコレートがあんなに。いつかね、近所のお姉ちゃんから1かけらもらったことあるんだよ。すっごく甘かったなー。パパ、チョコレートって食べたことある? ほんとに甘くておいしいんだよ」
「チョコレートか。あるとも、あるとも。甘くって、そんでもってちょっぴり苦かった。口の中でとろ~っと溶けて、いい香りが広がる。そんなお菓子だったな。パパ、あれを囓るたびに思うんだ。1年中暑くて、緑豊かな南の国のことを。チョコレートって、そんな国からやって来るんだぞ」
「ふうーん、いいなあ。行ってみたいなあ、チョコレートの国。毎日、好きなだけ食べられる? チョコレート」口の周りをチョコレートでベッタリにさせた自分の顔を思い浮かべながら、わたしは聞いた。

「ああ、好きなだけ食べられるさ。いつか、連れてってやろうなチョコレートの国へ」
「うん」
 店を一回りする。パンの棚には、袋入りの菓子パンが山のように積まれていた。渦巻きパン、あんパン、クリームパン、どれもおいしそうに光り輝いていた。
 父がまた小銭を勘定していた。もし神様がいて、願いを1つだけ聞いてくれるとしたら、その小銭が父の手の中で倍になりますように、とわたしは祈りたかった。

「チョコレートパン、買ってやろうか」唐突に父が言う。
「ううん、お腹空いてないから、いい」わたしは首を振った。
「遠慮するなって。それくらいはあるんだ。尻尾の先だけ、パパにくれるかい? パパな、チョコレートパンの尻尾が大好きなんだ」
 わたしはうなずく。ああ、チョコレートパンが食べられるなんて、まるで夢のよう。もしも、今日で世界が終わりだ、と誰かに言われたとしても、きっと思い残したりはしない。

「ねえ、パパ……」パンが1つだけ入ったコンビニ袋を胸に抱えながら、わたしは言った。
「うん? なんだい」
「えっとね、あの……」
「どうした。言ってごらん」
「……生まれて来ちゃってよかったのかなって」やっとのことで絞り出した。わたしが生まれてきたことで、パパとママが大変な苦労をしてるのではないかと、悲しくてならなかった。

 父はしばらくの間、何も答えなかった。ただ黙って歩き続ける。
 きっと怒っちゃったんだ、そう思い、泣きたい気持ちでいっぱいになった。
 アパートが見えてくる。
「あのな、むぅにぃ」父が口を開いた。「お前は、生まれたいと思ったから生まれてきたんだ。パパとママのところに来たい、そう思ったからここに来たんだ。そのことを、いまはすっかり忘れてしまっているだろう。でも、パパは忘れてないぞ。そうさ、何もかも覚えている。パパ達だって、お前に来て欲しいって願ったもんさ。この世界中の誰よりも、誰よりも、そう願ったもんさ」
 わたしの口元には、自然と微笑みが浮かんでいた。

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