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台車に乗って

 課長に頼まれた書類を資料室まで取りに行った。
「けっこうな量だぞ。総務から台車を借りてきなさい」そう忠告を受ける。
「はい、そうします」
 さっそく総務に向かった。
「すみません、台車を借りたいんですけど」総務の入り口で、声をかける。
 パソコンでデータを打ち込んでいた1人が振り返り、「廊下に1台あるの、あれを使ってかまいませんから」と言ってくれた。
「ありがとうございます。じゃあ、お借りします」わたしは台車を押して、資料室へと向かう。

 資料室を片っ端から回り、必要な書類を集めて歩く。
「ほんと、すごい量だなあ。会議で使うっていってたけど、全部なんて見られっこないよ」積みあげた資料を見ながら、わたしはつぶやいた。「さあて、これを運ばなくっちゃ。たぶん、そのあとコピーやらお茶汲みなんかもさせられるんだろうけど」
 首から提げていたPHSが鳴る。表示されている内線番号は課長のものだった。

「はい、むぅにぃですが」
「ああ、さっきの資料ね。悪いんだけど、あれ、本社の方に届けてもらえないかな」
「本社にですかっ?」わたしは驚いた。ここからだと、距離にして100キロは離れている。
「すまんねえ、いま手が空いているのは、君しかいなくって」PHSの向こうで、申し訳なさそうに目を細めている課長の顔が目に浮かぶ。
「時間がかかると思いますが……」わたしは、考え考え答えた。
「おお、行ってくれるかい? 助かるよ。頼んだよ、むぅにぃ君」
 ほっとしたような吐息と同時に、PHSは切れる。

 さて、どうやって行くのが1番早いだろう? タクシーか、それとも電車で行くべきか。
「そうだ、いっそこの台車で走っていこう。荷物の積み卸しもしなくて済むし、小回りだってきくぞ」わたしは閃いた。
 エレベーターまで押していき、1階で降りる。自動ドアをくぐって、そのまま外へと出た。
 取っ手をハンドル代わりに握り、さっそうと台車に飛び乗る。
「さあ、出発だ!」わたしは片方の足で地面を蹴って走りだした。風景も歩行者も、びゅんびゅんと飛びすさっていく。「わー、速い速いっ。この分なら、3時間くらいで着いちゃうかもしれないな」

 コーナーを足底ブレーキで減速し、一気に曲がる。上り坂ではいったん台車から降り、押し歩きで。てっぺんまで来たら、前傾姿勢で加速だ。
 耳もとを吹き抜けていく風の音が、最高に気持ちいい。
「盗んだ台車で走り出すぅ」思わず、歌が口をついて出る。橋を越え、トンネルをくぐり抜け、いつの間にか幹線道路へと出ていた。
 すぐ脇を、乗用車やトラックが勢いよく追い越していく。さすがに、これは怖い。
「このボタンは何だろう」取っ手の横に、小さな黄色いボタンを見つけた。試しに押してみる。キーンというタービンの音がして、たちまち加速した。
「すごいっ。この台車、ターボ付きだっ!」
 たったいまわたしを抜いていったスポーツ・カーに並んだと思ったら、もう遙か後方へと消えてしまう。凄まじいほどのスピードだった。

 高速道路の入り口が見えてきたので、そちらへと車線を変更する。
 料金所で通行券を受け取って、ポケットにしまった。
「ついでにETCも搭載してくれてたらなぁ」まあ、台車じゃ仕方がないか。
 本線に入ると再びターボ・スイッチを入れ、他のクルマを次々と追い越していく。
 ムキになって追い上げてくるクルマもあったけれど、わたしの台車に敵うものはなかった。荷台の書類をパタパタとはためかせながら、まるで稲妻のように突っ走る。

 高速の出口が見えてきた。
 料金所でお金を払い、領収書を受け取る。あとで経費として請求しなくては。
 一般道に下り、本社ビルへと向かう。ここまで来れば、ゆっくり行っても5分ほどで着く。
 当初予定していた3時間が、わずか30分で来てしまった。本社の部長も、きっとびっくりするに違いない。
 赤い看板のドラッグ・ストアが見えてきた。目的地は、あと少しだ。

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