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ドア

 冷蔵庫の残り物を処理しなくちゃと思い、中を覗き込む。
「あれ、奥にドアが――」ノブの付いた、どこにでもあるドアだった。「こんなの、あったっけかなぁ」
 試しにノブを回してみる。カチャッと音を立てて、少しだけ開いた。向こう側は暗く、何も見えない。
「なんとか入れそう。どうなってるのか見てやろう」体を捻りながら、頭を突っ込む。胸の辺りまで入ってしまえば、あとは楽だった。腰から足先までを、するっとくぐらせる。
 そのとたん、ドアがバタンッと閉まった。たちまち、真っ暗闇になる。慌てて、後ろ手にドアノブを探るが、つるんとして何もない。周りに手を伸ばしてみるが、どこも滑らかな壁ばかり。
 どうやら、狭い箱のなかに閉じ込められてしまったらしい。

「失敗したなぁ。あの手のドアって、いったん閉まったが最後。初めっからそこになんてなかった、ってふりをして消えちゃうんだ」
 じたばたしても始まらないので、膝を抱えて座る。そのうちに、何かいい考えが浮かぶかもしれない。
 それにしても寒い。冬空の下だってこんなに冷えるものか、というほど空気が冷たかった。
「まるで、冷蔵庫の中にいるみたい」わたしは声を震わせる。
 突然、目の前がパッと明るくなった。壁だと思っていた正面は扉で、それが大きく開かれたのだ。
「あらっ!」意外そうな顔でこちらを見つめるのは、友人の中谷美枝子だった。「あんた、うちの冷蔵庫なんかで何してるの? ま、いいや。ちょうどよかった。シフォン・ケーキが焼き上がったところなんだ。食べてくでしょ?」

 わたしは中谷に手を引っ張ってもらいながら、冷蔵庫の中から這い出す。
「うん、お腹ペコペコ。それと、悪いけど、あったかい紅茶とかもらえる? すっかり冷えちゃったみたい」
 中谷自家製のケーキは、いつもながらおいしかった。シフォンの生地もきめが細やかだし、デコレーションの生クリームだって、きれいにトッピングされている。
「ハリー・ベーカーのレシピにさ、ちょっと手を加えてるんだ」うまさの秘密を尋ねると、いたずらっぽくそう答えた。
「ベーキングパウダーが違うとか?」
「さあね、どうだったかなあ」とぼけて教えてくれない。もっとも、聞いたところで仕方がなかった。そもそも、わたしはケーキなんて作れないのだ。

「あんた、口の周り、クリームでべっとべとだよ」中谷は笑いながらティッシュの箱を差し出す。わたしはティッシュを抜いて拭いた。
「取れた?」
「ダメダメ。今度は、鼻にくっついちゃってる」
 生クリームは、しっかり拭っておかないと、あとでてかてかになる。
「ちょっと、洗面所借りるね」
「タオル、使うんだったら、洗ったのが畳んであるから」
「うん、ありがとう」わたしは席を立った。
 洗面所の鏡で自分の顔を映してみると、なるほど、鼻の頭に白いクリームがぷるんっと載っかっている。
 クリームを洗い流し、ついでに顔も洗った。傍らの突っ張り棒の棚から、きちんと畳んで積んであるタオルを1枚取って、顔に押しつける。
「この香り。うちと同じ洗剤を使ってるな」なぜだか、クスッときた。

 戻ろうと洗面所のドアを開けて、目を丸くする。
「あれ、なんで?」確か、中谷の家にいたはずだ。ところが、雑踏に出てきてしまっている。廊下へ出たつもりが、うっかり玄関を開けてしまったのだろうか。
「そんなはずない。だいいち、それだったら通りに出るはずだし」いまいるところは、どう見ても駅前の商店街だった。どんなに早足でも、15分はかかる。
「やっと来たか。遅刻はおれの専売特許だと思ってたんだがな」桑田孝夫が隣で見下ろしていた。
「えっと、待ち合わせしてたんだっけ?」われながら、間の抜けた質問だと思う。
「お前なあ、人を待たせたあげくにそれかよ」軽蔑したような目を向けるのだった。「この寒い中、30分も立ちん坊だったんだぞ。おおかた、中谷んちかどっかで、うまいもんでも食ってたんだろ」
 心の中を見透かされたようで、ドキッとする。

「そ、そんなことないって。ちょっと、電車に乗り遅れちゃった」ふだん、桑田が口にするような言い訳を、今度は自分がしていた。 
「もう、いい。そんじゃ、行くか」桑田は先頭に立って歩き出す。
「どこに行くんだっけ?」またしても、ばかげたことを聞いた。しまった、と思ったが遅すぎる。
「おいおい、むぅにぃ。お前、今日はどうしちまったんだ? 映画に決まってんだろうが。前から楽しみにしてたじゃねえか、『ジ・アブラゼミ』」
 そうそう、前々から公開を待っていたんだった。些細な罪で長年、牢獄に入れられていた男が、仮釈放の間に出会った女性と恋に落ちる。夏だけの逢瀬は、いつしか、短い一生を謳歌するアブラゼミに重なっていく。悲しくも美しい物語だ。
「ごめん、ごめん。きっと、興奮しすぎて、頭がボーッとしてたんだ」わたしは言った。
「しっかりしてくれよな」桑田が肩をすくめる。

 チケットを買って、待合室で待つ。分厚い扉を通して、セリフが聞こえてきた。
「言っておかなければならないことがある。ぼくは、前科者なんだ。もっとも、パンを1個取っただけなんだけどねっ」
「まあっ、それだって、犯罪は犯罪よ。あなた、心はまだ牢屋に入ったままなんだわ!」
 クライマックスらしい、感動的な楽曲が流れる。わーっと盛り上がって、人がぞろぞろと出てきた。
「よし、中に入ろうぜ」わたし達はソファーを立つ。
 わたしが中に入ると同時に、背後でドアの閉まる音を聞いた。
「真っ暗で何も見えないね」そう話しかけたが、そこに人の気配はない。桑田だけでなく、たったいま一緒に流れ込んできたほかの観客さえも。

「ああ、まただ……」わたしは溜め息を洩らした。今度は、どこに来てしまったのだろう。
「むぅにぃ君、いつまでそうしているつもりですか。夜風は体に毒ですよ」
 目が慣れてくるにつれ、空には星が、遠くには墨よりも濃い山の稜線がうかがえてきた。
「あ、志茂田」わたしは振り返って言う。「ここって、夢ヶ丘の高原だっけ?」
「もちろん、そうですとも。あなたが来たいというから、わざわざレンタカーで連れてきてあげたのではありませんか」志茂田ともるは、何をいまさら、という顔をする。
「そうだったよね。なんだか色々あって、混乱してるんだ」
「もしや、映画など観ませんでしたか? 近頃の映画は、人の深層心理に少なからぬ影響を与えますからねえ」志茂田は、もっともらしい顔をした。

「映画か……。観たような気もするんだけど、なんだかはっきりしないなぁ」わたしは正直に答えた。
「さもなくば、食べ物かもしれません。シフォンケーキとかですね。たまにはいいですが、食べ過ぎると甘い幻想ばかり見るようになるんですよ」
「そうかなぁ」
「それはともかく、もう遅いですよ。そろそろ、帰るとしましょう。さ、クルマに乗って下さい」志茂田はそう言うと、自分は運転席へ乗り込んだ。
 助手席に座ってドアを閉めるとき、わたしの胸に、ちらっと不安がよぎる。
「どうしました? ドアを閉めて下さい、むぅにぃ君」
 志茂田に促され、わたしは意を決してクルマのドアを引き寄せた。
 バタンと、ドアが閉まる。ただ、それだけだった。
「シート・ベルト、忘れないで下さいね」
 志茂田がそう付け加える。

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