見出し画像

雑談#21 二次創作へのスタンスと、その背後にある原作者の「無償の善意」について

 先日、「セクシー田中さん」という漫画が原作のドラマをめぐって、原作者とドラマ制作陣との間の意思疎通がうまくいかず、原作者の思いと違ったドラマ化がなされたことに対する原作者の意思表示を発端として論争が起こり、結果的に、原作者が自死されるという、最悪の結末を迎えたという事件がありました。

 私は、SNSで論争が起こるまで、原作漫画もドラマも知りませんでしたが、原作者の訴えた現状を読んでいたので、その結末にはとてもショックを受けました。

 そんな中、二次創作をしている自分はまさに、原作を、原作者の望まない改変をしてドラマ化したドラマ制作陣と同じことをしているんだな、と受け止めた部分もありました。

 私自身は、「自己紹介」でも書いている通り、自分の好きな作品(原作)の続編を見て、いや、そうじゃなくて、もっとこういう展開を見たかった、という思いがあり、原作をベースに自分の考えた続編を二次創作しています。ですから、私のスタンスは、自分の好きな原作作品そのものの内容と世界観をそのまま土台として、そこから考えられる別の展開を、小説にしている、ということになります。

 あるいは、それは続編の作者への異議申し立てといえるかもしれません。自分自身にもそういう認識はあり、そこは忘れてはならないと思っています。ただ、原作の「機動戦士ガンダム」という作品自体が、すでに多くの公式的な二次創作物を伴い、パラレルワールド化している、という現状を考えれば、私のそういうスタンスも、少なくともファンアートの一つのあり方として、このコンテンツを取り巻く環境の中では受け入れられるものかな、とは思っています。

 そもそも、アニメ雑誌の黎明期には、商業誌にアニメの二次創作漫画が掲載されているということも普通にあり、同人誌にアニメの製作者が寄稿するという形もあったと聞いています。放映当時に発行された公式資料集である「機動戦士ガンダム 記録全集」には、発行された多数の同人誌も掲載されており、ファンとの交流が、制作陣にも一定の影響を与えていたことを窺い知ることができます。

 そんな中で、気になることがあります。漫画やアニメといった創作物は、今や人気とともに二次創作物が作られるのが、当然の現象となっています。そしておそらく、その境界線も、どんどんと曖昧になってきていると思われます。二次創作をしていた人が、オリジナル作品を手がけるようになり、オリジナル作品を発表する側も、売れる手段の一つとして二次創作を黙認する、という、ある意味持ちつ持たれつの関係が、出来上がっているということです。

 例えば、年2回開催され、20万人を超える来場者を集める、という世界最大の同人誌即売会がありますよね。そもそも、著作権的に限りなくグレーゾーンにあるものを販売するイベントが公認され、企業ブースも出展してそれをビジネスに利用している、という現状があります。すでに、二次創作も市場化され、ビジネスの中に組み込まれているわけですよね。

 そんな中で、一番軽く扱われてしまっているのが、原作者ということになりはしないでしょうか。こうした土壌が、「セクシー田中さん」の事件で、原作者の意図するところが限りなく軽視されてしまったことに、つながっていないでしょうか。ある意味、上記のような同人誌即売会をはじめとする二次創作市場というのは、原作者の「無償の善意」で成り立っている、といってもいいようなものではないでしょうか。

 もう一つ、忘れられない事件があります。2019年7月に起こった、京都アニメーション放火殺人事件です。この事件は、36人が死亡、33人が重軽傷を負うという、日本の犯罪史上もっとも犠牲者の多い事件となりました。先日、被告には京都地裁で死刑の判決が出され、控訴されています。

 この事件は、その犠牲者数の多さと凄惨さ、そして何より、美麗な作品を作り上げることで知られたアニメスタジオが狙われたということに注目されてきましたが、その発端の一つとなったのは、被告が「京都アニメーション大賞」に自作の小説を投稿し、それが、のちに制作されたアニメ作品に盗用されている、と思い込んだことでした。この大賞は、受賞作品が書籍化されたり、アニメ化されるというのが、投稿者にとっては大きな魅力になっていたことは、まちがいありません。

 被告の盗用の主張は、盗用というに足りないもので、彼のしたことは赦されることではありません。しかし、その背景に、上記の同人即売会と同様、原作者の「無償の善意」で成り立っているものがある、ということは、否定のできない事実ではなかったでしょうか。

 AIを利用するかどうかはともかくにして、現在では、ネット上にオリジナル、二次創作を問わず、数多の創作物が公開されていて、あるものは多くの賞賛をあつめ、あるものは収益化されるなどし、一つのビジネスモデルを形づくっています。
 それらを支えているものが、原作者の「無償の善意」と、個々人の「リテラシー」なのだとしたら、それはなんと脆弱な土台なのだろうと驚くばかりです。そういうものが裏切られたとき、暴発して事件を起こす人が出てきても、不思議はない、という気がするのです。そして、メディア側の人たちの中に、そうしたことに目を向けている人がいるように感じられない、ということに、危うさを感じています。

 ではどうすればいいのか、という答えを、私は今見つけることができないけれど、創作物を前にして、自分が単なる消費者であったり、あるいは搾取者となってしまわないように、心を見失わないようにしなければいけないと思っています。創作物と対峙するということの中に、作り手と受け手とのコミュニケーションがあると思うからです。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。 ぜひ、スキやシェアで応援いただければ幸いです。 よろしければ、サポートをお願いします。 いただいたサポートは、noteでの活動のために使わせていただきます。 よろしくお願いいたします。