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ロックンロールと素晴らしき世界(仮) No.1

 ロックンロール

 ロックンロールが死んだ。
 その知らせは一瞬にして街中に広まった。
 この表現は正確ではない。正確にいこう。
 それは水面の波紋のように広まったのではない。そういう同心円的に、中心から周縁に向かって広まっていくようなものではなかった。そういう広がり方ではなく、あらゆる人、あらゆる存在が、その死をその瞬間に知ったのだ。その瞬間。まさにその瞬間。それはある種の啓示のようなものに近かった。
 自分が自分であることのように、そのくらい自明のことのように、それを理解した。自分が自分であることを理解するように。
「ロックンロールが死んだ」と、誰かが口にした。
「ああ」と、それを聞いた人、それを口にした人とは赤の他人の通りすがりの人はそれに答えた。「ロックンロールが死んだ」
「ロックンロールが死んだ」
「ロックンロールが死んだ」
「ロックンロールが死んだ」
「ロックンロールが死んだ」
 誰もがそれを、その事実を口にせずにはいられなかった。そうして、その事実を確認するように。その事実を飲み込みやすくするように。その事実に形を与え、それをそれとするために。そうして口にして、互いに顔を見合わせた。誰ひとりとして、それ以上なにを言えばいいのかがわからなかった。言うべきことはなにもないように思えたが、それでも口にせずにはいられなかった。
「ロックンロールが死んだ」

 これはロックンロールの不在に関する物語だ。
 なぜなら、ロックンロールは死んだからだ。
 ロックンロールは不在である。
 だから、これはロックンロールの不在に関する物語だ。
 それはつまり、これはロックンロールについての物語であるということだ。
 これはロックンロールについての物語だ。
「で」と、誰かが言った。「ロックンロールってのは誰なんだ?」
 周囲の人々はその言葉に振り向いた。冷たい視線を、その誰かに向ける。視線を向けられた人は、たじろぎ、後ずさりする。
 ロックンロールとは、誰か。
 ロックンロールとは、誰だ?

 これはロックンロールについての物語だ。

 その死の直後から、ロックンロールを殺したのは自分だ、と主張する人間が何人も現れた。そう主張する人間には老人もいたし、女もいた。年端も行かないような子どもまでいた。共通しているのは、その誰もが、その自分の行いを深く悔いているということだった。誰ひとりとして、有名になりたいとか、チヤホヤされたい、注目されたいというような、そういう売名行為とは無縁そうだった。ただ自分の行いを誰かに話し、赦しを乞えるのならそうしたいと、心の底からそう思っているようだった。
 ある鉄道整備士はこう話した。
「到着した貨物列車の点検をしていたんだ。それが俺の仕事だからね。車輪に不具合はないか、台車に亀裂は入っていないか、そんなことを隅々まで点検する。俺は列車のどの部分だって知り尽くしてる。女房の体だってこんなに隅々まで詳しくない。
 なにしろ、もしも不具合があれば大事だ。わかるだろ? 何両も何両も繋がった貨物列車だ。脱線でもしてみろ。積み荷はおじゃんだし、近くに人がいたりしたら轢かれて死んじまう。俺は誰も殺したくなんてないし、他人のなにかを壊したくもない。積み荷は誰かのものだ。確かに、それはいけ好かない金持ちどものものかもしれないが、それでもそれをおじゃんにするのはゴメンだ。フェアじゃない。俺にとって大事なのはフェアかどうかだ。金持ちどもがズルをしようが、俺にはそんなことは関係ない。俺がフェアかどうかが重要だ。甘い考え方かもしれないが、それが俺の考え方だ。
 そうして、俺は点検をしていた。すると、車両と車両の間から人影がひょっこり出てきたじゃないか。身なりは汚くて、髪の毛はボーボー、カバンを棒にひっかけて担いでやがる。俺の一番嫌いな連中だ。こいつらはカネも払わずに勝手に列車に乗りやがる。俺はそれが許せない。もしも列車の乗りたいのなら、それに必要なカネを払うべきだ。列車はタダで走ってるわけじゃないんだ。燃料もいるし、運転士や、俺みたいな整備士がいなきゃちゃんと走れない。そういうあれこれを、こいつらは理解できないのか、あざ笑ってやがる。それはフェアじゃない。だから、俺はそれが許せなかった。
『おい!』と、俺はそいつに声をかけた。大抵のやつはそれで飛び上がって逃げようとする。だが、足元は敷石で、慣れてないと走るどころか歩くのだって大変だ。足をくじいて転んじまうのが関の山だ。
 だが、そいつは逃げ出さなかった。それどころか、驚いた様子もない。そんなことは初めてだった。
『てめぇ!』と、俺はそいつに詰め寄ったが、そいつがあまりに堂々としているものだから、こっちがドギマギしちまった。それでも俺はどうにか気を取り直してこう怒鳴った。『タダ乗りしてんじゃねえぞ、この野郎』
 すると、そいつはニヤリと笑いやがったんだ。背筋が凍るような気がした。とにかく不気味だった。
『あんたは』と、そいつは言った。『自分が正しいことをしていると思っているな』
『当たり前だ』俺は言った。正しいのは俺だった。間違いなく。
『あんたはあんたの正しいと思うことをやればいい』そいつはそう言ったんだ。俺はなぜかそれが頭に来た。バカにされているような気がしたんだろう。まるで自分がバカになったような気がした。
 俺は自分がレンチを手にしている事に気づいた。そんなことはそれまですっかり忘れていた。それに気づくと、その瞬間俺はそれをそいつの頭に振り下ろしていたんだ。俺は驚いた。俺は誰も殺したくなんてないし、傷つけたくもない。それが、俺はそいつの頭をレンチで殴りつけているんだ。そいつが倒れても、馬乗りになって殴り続けた。
 自分でも自分が止められなかった。
 あれがきっとロックンロールだったんだと思う。
 俺が、ロックンロールを殺したんだ」

 ボクシングのチャンピオンも、自分がロックンロールを殺したのだと話した。
「試合の前にはいつもひとりきりになる。入場の直前、控え室から全員を出すんだ。セコンドのやつらもみんな。
 その時間帯がいつも怖いんだ。俺はリングに上がるのが怖い。そうして怯える自分を誰にも見られたくないんだ。そうして、怯えきって、腹をくくってからリングに上がる。そうしないとリングに上がれないんだ。
 殴り合いなんてちっとも好きじゃない。たまたまそれが他の人間よりも上手かっただけなんだ。そして、それでカネが稼げた。カネが稼げなきゃ、それがいくら上手くてもそんなことはしなかった。
 もしもこの才能がなければ、俺はきっと仕事にあぶれて、そこらへんをウロウロしているだけのヤツだったと思う。チンピラにもなれたかどうか怪しいもんだと思う。売人になるようなヤツもいるが、俺にはそれすら務まらなかったんじゃないかと思う。ビビっちまって、きっと役に立たなかっただろう。
 俺の周りの連中はみんなそうだ。仕事にあぶれ、ブラブラしているか、悪事に手を染めている。別にみんなそれがやりたいわけじゃない。それ以外を知らないんだ。それ以外の生き方を知らない。周りにはそんな連中しかいない。親も、親戚も、近所の人間も、みんなそんなだ。だから、それ以外なんて想像もできないし、そもそも想像なんてしない。ガキどもはみんな大人になったら仕事もなくてブラブラするか、悪事に手を染めるようになるものだと思っている。俺もそうだ。
 俺はラッキーだった。盗みで入った少年院でこの殴り合いに出会った。ラッキーだったのかはわからない。俺はこの殴り合いが嫌いだからだ。だが、そこでこの殴り合いに出会わなければこれでカネを稼ぐようになることもなかった。
 俺が稼ぐのはびっくりするくらいのカネだ。俺が殴り合いをして、相手を殴り倒すのを見るのに、びっくりするくらい多くの人間が、びっくりするくらい多くのカネを払う。俺には理解できないが、理解できないからと言って否定するつもりはない。好きにすればいい。俺の懐はそれで温まるんだ。それどころか、俺の親も、兄弟も、親戚も、一族郎党そのカネで生活できるようになった。わざわざ悪事を働くことなんてなくなったってことだ。危険を犯さなくてよくなった。それはいいことだ。
 その、静まり返った控え室で、俺はどうにか覚悟を決めようしていた。いや、会場のざわめきみたいなものはそこまで伝わってきていた。それのせいで、静まり返ってはいなかった。さざ波みたいななにかが、伝わってきていた。
 リングに立たなければならない。俺が殴り合いをして、それで得たカネで俺の周りの連中は生活をしてるんだ。俺の家族、親族、一族郎党、みんなだ。俺は自分に言い聞かせる。
 人が殴り倒されるのを見るのを心待ちにするなんて、狂っていると思わないか?
 俺はガウンを羽織ったまま、軽くステップを踏む。ピカピカの床がキュッキュッっと鳴る。軽くジャブを出す。ジャブ、ジャブ、ストレート。体を動かすと、少し頭が空っぽになる。
 行けそうな気がしてきていた。覚悟が決まりかけていた。そのときだ。俺は人の気配を感じたんだ。
 そいつは控え室の隅にいた。ジムの関係者じゃない。プロモーターでもなさそうだ。会場の人間か、記者だろうかと思った。
『おい!』俺は怒鳴った。俺の怒鳴り声に気づいて、表にいる連中が入って来てくれることに期待していた。しかし、そんな様子はまるでない。
 妙に静まり返っていた。会場の熱気みたいなものも感じない。そこだけ切り取られて、宇宙のまったく別のところに移動させられたみたいな感じだった。
『俺はみんな出て行けと言ったはずだ。てめえはそこでなにをしてやがる?』俺はそいつに詰め寄った。そいつは怯える様子もなく、ただそこに立っていた。
 むしろ、怯えていたのは俺なのかもしれない。連戦連勝のチャンピオンの俺が怯えていた。俺はそれを気取られたくなかった。それは俺の沽券にかかわるからだ。なめられたらおしまいだ。それは俺がガキの頃からずっと。
 そして、そいつはニヤリと笑ったんだ。まるで、俺を嘲笑うみたいに。
 頭の中でなにかが切れた音がした。
 気づくと俺は、そいつの首を絞めていた。グローブをした手で床に倒し、首を押さえつけていた。そいつの顔は真っ赤になり、次第に紫色に変わっていった。特に抵抗するでもなく、なすがままにやられている。
 そこまでやることないじゃないか、頭な片隅で俺は自分に言い聞かせる。しかし、首を絞めている俺は耳を貸さない。そいつが泡を吹いてぐったりするまでそうした。
 俺は力なく横たわったそいつを見下ろしていた。ひどく虚しかった。体の芯が重く冷たくなっていた。
 きっと、あれがロックンロールだったんだと思う。
 ロックンロールを殺したのは俺だ」
 
 この手の話がいくつもなされた。
 ロックンロールを殺したのは俺だ。
 ロックンロールを殺したのはわたしだ。
 ロックンロールを殺したのは、誰だ?
 ロックンロールは殺されたのか?
 ロックンロールは殺せるのか?
 ロックンロールとは、誰だ?

 ロックンロールの死を街中の人間が知ってからしばらくして、暴動が始まった。
 闇夜が覆う街のあちこちで、赤い炎が上がっている。
 その暴動がロックンロールの死に起因するのかはわからない。特に主義も、主張も無いような暴動だった。人々はなにかを声高に叫ぶでもなく、無闇矢鱈に破壊し、略奪した。なにかのタガが外れたように、あらゆる場所で暴力が爆発した。街のあらゆる場所でだ。街の、屈強な男たちでも入るのに尻込みするような一番物騒な界隈から、来る人を拒む要塞のような高級住宅街まで、いたるところで。
 暴徒と化した人々はショッピングモールを襲い、陳列されたものを奪った。奪い、奪って、破壊した。破壊して、踏みにじった。商店のショウウインドウは割られ、本来であれば金銭の対価となるものが運び出された。それはどこかで金銭に代えられるのかもしれないし、ただ破壊されるのかもしれないし、それ本来の使用目的に使われるのかもしれない。
 地面に散らばったガラスの破片はキラキラと美しかった。それはガラスの本来の使用目的とは異なる。
 治安維持を目的とした武装警官たちが投入された。威嚇射撃の音が響き渡り、催涙弾が煙の尾を幾筋も引きながら飛んで行った。サイレンの音がけたたましく鳴り響き、赤色灯がそこかしこに赤い影を明滅させた。
 パトロールカーの登場で、蜘蛛の子を散らすように暴徒たちは逃げ惑った。しかし、暴徒たちは姿を消したかと思えば、どこからともなくまた戻ってきて、周囲を威圧しているパトロールカーにアリのようにむらがり、それをひっくり返した。ひっくり返されたパトロールカーは足掻くことさえできない。上下逆さまにされパトロールカーの屋根はつぶれ、ガラスはひび割れ、そのひび割れた窓を割って、中にいた警官が這い出てきたが、暴徒はそれを取り囲み袋叩きにした。
 それが警官であるからだ。
 乗合バスが進路を塞がれ、立ち往生した。乗客はもちろん、運転手も逃げ出し、それに乗り込んだ暴徒のひとりが火をつけた。あっという間にそれは燃え広がり、車両全体が火に包まれた。
街のいたるところから黒煙が上がった。

 映像が切り替わり、スタジオのニュースキャスターが映し出された。きっちりと横分けに固められた髪型、少し白いものが混じり始めているが、まだたくましく、張りがある。眉間には深く皺が刻み込まれている。厳しい表情を作り出しているそれは、どことなくこれみよがしさを感じさせる。肌は適度に日焼けし、健康的で、スーツに包まれた肩はがっしりとして力強い。セルロイドの眼鏡の奥の鋭い目が光る。
 ニュースキャスターは深く息をついた。心底呆れ返ったという感じだ。まるで、悪事を働いた不良を前にした学級委員長といった様子だ。
「我々のこの街において」と、ニュースキャスターは重々しく切り出した。「我々の暮らすこの街、『すばらしき世界』においては、一切の暴力、一切の破壊行為、一切の他人を傷つけるような行いは許容されません。それは言うまでもない事実です。ここでは誰もが幸福に暮らす権利を持っています。それは誰にも奪えないし、奪わしてはならないものです。暴徒たちを許すわけにはいきません。決して彼らを許容せず、暴力を憎み、平和を愛しましょう。ラブアンドピース。みなさんのこの夜が、穏やかなものでありますように
それでは、よい終末を」
 そういうとニュースキャスターはお辞儀をし、テレビは消される。
 それでは、よい終末を。

 街の名は「すばらしき世界」といった。それは正式に地図に記載されている名はこれとは異なるが、その本当の名を覚えているものはひとりとしていなかった。
 その本当の名は特に重要ではない。誰にも忘れ去られるような、その程度のものだ。
「すばらしき世界」
 なぜそこがそう呼ばれるようになったのかといえば、そこがすばらしき世界だからだ。他に理由はない。大抵のものはそんなものだ。ぶらさがり健康器はぶらさがって健康になるための器械だ。名は体を表す。すばらしき世界がすばらしき世界でなければ、それはすばらしき世界とは呼ばれないだろう。すばらしき世界と呼ばれるからには、そこはすばらしき世界なのだ。でなければ、すばらしき世界とは呼ばれないだろう。
 ぶらさがり健康器にぶらさがって健康になれるのかどうかはわからない。おそらくなれるのだろう。でなければ、ぶらさがり健康器を名乗ることはできないだろう。
 あるものにとって、街は間違いなくすばらしき世界だった。
 あるもの、それは富める者たち。
 すばらしき世界、そこは純然たる弱肉強食の世界だった。強者必勝の世界。強者にとってはこの上なくすばらしき世界。力のあるものは力のないものを簡単に食い物にした。バクバク食べて、食べこぼしも気にせず、マナーなんてくそくらえ。持つべきは鋭い爪と牙、その爪は力のないものを容赦なく引き倒し、牙は無慈悲に首筋に突き立てられる。
 血が流れる。弱者の血だ。それは省みられることなどない。
別に富める者たちが残酷であるからではない。それは勘違いしてはならない。
 そういうものだからだ。
 この場合の力とはつまり、カネだ。富める者たちはその金銭を爪と牙として、武器として、それを持たないものを引き倒し、首に牙を突き立て、むさぼり食った。そこからさらに絞り上げた。富めるものはさらに富み、貧しいものはどんどん貧しくなっていった。
 よくある話だ。
 ああ、なんてすばらしき世界。
 もちろん、富める者たちも鬼畜ではなく、親もいれば子もいて、時には人を愛したりもするような、ある程度まで普通の人間である。それなりの倫理観はあり、子犬が雨ざらしになっているのを見れば少なからず痛むほどの心は持っている。ほんの小さな心と、いびつな倫理観であったとしても、人を人として扱わないことにはそれなりの良心の呵責を感じないわけではない。
 彼らが絞り上げる弱者もまた自分と同じように人間であることを彼らも知っている。絞り上げようとしているのがオレンジやレモンでないことくらい、誰にでもわかりそうなものだし、わかることだ。
 そこで、絞り上げるに当たって、彼らは良心の呵責を感じないためにある方策を考えだした。これは実に成功した解決策だった。
 絞り上げるその相手を、人間と考えないことにしたのだ。
 それはある程度の糖分と脂肪を流し込むと動き出す機械である。時折不調を来たし、ギィギィと不平不満や文句を言うかのように音を立てることもあるが、適度に油を差し、場合によっては部品を交換すれば、大抵の場合はまた動き出す。壊れてしまうこともあるが、代わりの部品はいくらでも供給される。わざわざ製造するまでもなく、リンゴやオレンジが木に成るよりも簡単に、どちらかといえば雑草やなにかのように、それは作られる。
比喩表現である。比喩として、あたかもそれが声を上げるなにものかかのように語っているのだ。
「ギィギィ」
 それは声を上げない。なぜなら、それは部品だからだ。軋む音ならするかもしれない。
 この思考法は実にうまくいった。富める者たちは自分たちの行いに心を痛めることなく、自分たちの財産を効率よく増やすことになった。その富はさらなる力となり、それがまた富を呼んだ。
 ああ、なんてすばらしき世界。
 この思考法の厄介な点は、それが部品であるという思考法が浸透すると、部品同士が壊し合うことに抵抗がなくなることだ。また、それは良心の呵責から自由になった富めるものたちについても同じ事が当てはまる。壊したところで別に構わないし、どんなに壊れても、また新しい部品は調達できるだろう。
 バン!バン!バタリ。
 その結果、大きな戦争が起こり、多くの部品が壊れてしまった。それは富める者たちにとっても由々しき事態である。部品がなくなると富を蓄積するシステムが機能しなくなる。
 そこで、彼らはもっと巧妙な手段に訴えることにした。
 部品があたかも部品ではなく、人間であるかのように取り扱うことにしたのである。部品を人道的に扱い、稼働時間をちゃんと考慮し、まるで自分が絞り上げられているとは考えなくなるように仕向け、あたかも部品が自ら進んでその任に当たろうとしているかのように思い込ませるようにしたのだ。
 これはいまのところ非常に成功している。誰も自分が絞り上げられているとは考えていない。時折ギィギィと軋みを上げるが、それは以前からのことである。適度の油を差すことと部品の交換で対処できる。
「ギィギィ」
 部品たちはそれぞれ固有の欲望のようなものを喚起され、それのために作動するように調整される。欲望を欲望し、そのために欲望するようにさせられてきた。
もちろんこれは比喩である。ただの部品が欲望を持つはずがない。
 欲望を喚起するために、すばらしき世界の空は広告塔で覆われている。看板、ネオンサイン、様々な主張が書き込まれたそれでは、美人が意味ありげな微笑を浮かべ、それを上回るような広告塔がさらに設置され、それを覆い、それが繰り返されすばらしき世界の空は埋め尽くされ、地表に太陽の光は到達することはない。
 そこは常夜の世界。
 朝無き世界。夜の繰り返される世界。
 終わりなき夜は欲望を掻き立てる。
 ああ、なんてすばらしき世界。
「すばらしき世界」という呼称はある種の皮肉であるという見方もある。すばらしくない世界をすばらしき世界と呼ぶのは皮肉である。見方によるが、そこはあまりすばらしくない世界であるとも考えられる。もっと誰にでも優しい世界こそが望まれるべきものだという考え方もありうるだろう。そういう観点から見れば、そこはあまりすばらしき世界とは呼べないのかもしれない。皮肉だと考えるのは、そこはすばらしき世界とは真逆であるからこそ、それはすばらしき世界と呼ばれるのだというのだ。あまりに皮肉な見解かもしれないが、これほどまでに皮肉な捉え方をされるとは、なんとも皮肉なものである。
 ああ、なんてすばらしき世界。

 老人は、そのすばらしき世界を病室から見下ろしていた。うつろな目には力がない。なぜなら、老人はもうじき死ぬからだ。だから、この老人の将来については語られない。語るべきことはもうほとんど残されていないからだ。
 老人は何度か呼吸をして、死ぬ。以上。
 彼にもうなにかをする時間も、力も残されていない。
 老人の銀行口座にはうだるような金額が入っており、株券その他有価証券も多数、所有する不動産、企業その他諸々、すばらしき世界において力の源泉となるものを、彼はありあまるほど持っていた。街の誰よりも持っていた。彼こそはすばらしき世界の王と呼んでも差し支えないだろう。
 事実、彼はそれらを使い、街を思うままにしてきたのだ。誰も、彼を止めることなどできなかった。政治家たちは彼の子飼いばかりだったし、警官たちは買収され、裁判官たちですら意のままに操れた。気に食わない人間は簡単に殺せたし、欲しいものはなんだって手に入った。
 そして、彼はいま死のうとしている。彼はそれを欲したわけではない。むしろ、なによりもそれを避けたかった。どこまでいっても、彼の欲望は留まることを知らなかった。その病室のベッドの上においても、彼はまだ生きたいという欲望を抱いていた。
彼の見下ろしたすばらしき世界は、暴動で燃えていた。自分の所有物であるそれを、虫けらどもが荒らすのが忌々しかった。ひとり残らず殺すべきだと、うつろな目で思った。武装警官たちの装備をもっと強力なものにするべきだ。マシンガンで、虫けらどもう撃ち殺せるように。
 ああ、なんてすばらしき世界。
 彼の所有物のひとつであるその病院の、彼のためにしつらえられたそのだだっ広い特別病室には、彼の他には誰もいなかった。
老人は孤独だった。誰ひとりとして、彼に寄り付こうという人間はいなかった。強欲で吝嗇、高慢ちきで、傍若無人、猜疑心に満ち溢れ、ちょっとでも気に食わないことがあれば怒り狂い、場合によっては殺されかねない。少なくとも、老人にこの人間と付き合いたいという要素は一欠片として存在しない。利用できる人間だけを周りに置き、利用できなくなればすぐに切り捨てた。比喩的にも、比喩抜きにも。
「いや」と、老人の唇の隙間から声が漏れる。「寄り付いてきた奴らはいたが、それは俺に近づいたわけじゃない。連中が寄り付いてきたのは俺の持っているカネにだ。俺にじゃない」
「可哀想に」と、誰かが言った。病室の隅、暗がりの中から声がする。その姿は影になって見えない。
「誰だ?」老人はその声の主に尋ねた。
「可哀想に」
「俺を憐れむな」
「俺は相手が悪魔であっても憐れむよ」誰かはそう言った。
「殺してやる」老人はか細い声で言った。「お前は誰だ?」
「ロックンロール」と、その誰かは言った。

 老人のうつろな目はそれを捉えなかったもしれないが、病室から見下ろす町並みの一角に、尖塔が見える。それは静かにそこにそびえている。まるで周囲の喧騒とは自分は無縁なんだと主張するように、ツンと、澄ました感じで。古めかしいそれは、街のそこここで上がる火の手に赤く染められている。
男はその尖塔のしたの窓から街を、すばらしき世界を見下ろしていた。男のいる部屋も、その外観と変わらず古めかしい。机も、書架も、どれも年代物だが、きちんと手入れがされていたことがわかる。
 街を見下ろす男のその顔も赤く照らされている。窓は開け放たれ、なにかの砕かれる音や、叫び声、発砲音が交錯するが、男は顔色ひとつ変えない。いかなる表情もそこには浮かんでいない。
 火の粉が飛んできて、男の着ている黒い僧衣の上に落ちる。男はそれをサッと手で払った。慌てた様子は無い。そして、目をつぶり、息を深く吸い込んだ。焦げ臭い、騒乱の空気を吸い込んだ。それで胸を一杯にすると、振り返り、部屋を出て、階段を降りて行った。会堂には逃げ込んできた信徒たちで溢れているだろう。その怯え惑う子羊たちは誰かの導きを必要としているのだ。誰かの言葉を。信じられるなにかを。
 男が会堂に姿を現すと、それまでのざわめきが変質した。戸惑い、右往左往していたそれが、導き手の登場でそれに集まったのだ。
「先生」と、信徒のひとりが男に声をかけた。その呼びかけは、助けを求める声だった。誰もがそれに続く。すがるべきなにかを見付けたのだ。
「先生」と、老婆が声をかける。男はうなずく。
「先生」と、中年の男が声をかける。男はうなずく。
「先生」と、若い女が声をかける。男はうなずく。
 男はそのひとつひとつにうなずいて答える。うなずきながら、信徒たちの間を歩いていく。そして、ゆっくりと階段をのぼり、講壇に立った。
 男は会堂に集まり身を寄せ合うようにしている信徒たちを見渡した。それが怯えた子羊であることは一目瞭然だった。彼らは助けを求めていた。男の発する言葉が、自分たちを救ってくれるものと信じ、それを待ち構えていた。
「外で起きていることに」と、男は重々しく口を開いた、「主は心をお痛めになっていることでしょう。あまりにも多くの血が流れ、命が失われさえしていることでしょう。これはなにも今に始まったことではありません。この街では、こんなことが繰り返されてきたのです。ここは悪徳の栄える街でした。そして、今それが顕在化しています。しかしながら」と、ここで男は言葉を区切り、信徒たちを見渡した。「これはわたしたちと無縁のことではありません。これはわたしたちの罪でもあるのです。なにひとつ奪わず、傷つけていないわたしたちもまた、彼らと同罪なのです。
 祈りましょう。
 それ以外に罪を贖う方法はありません。
 赦しを乞いましょう。
 赦しを得られるための方法はそれしかありません。
 祈りましょう」
 そして、男は指を組み、目を閉じ、頭をたれた。それに習い、信徒たちも同じように祈り始める。外では叫び声、クラクションの音、何かが破裂した。
 祈っている男はその耳元に誰かの息遣いを感じた。それでも驚く様子はなく、目は閉じられたままだ。
「あんたは」と、その誰かは言った。「罪人だ」
「知っているよ」男は答えた。「人は誰でも罪人だ」
「そうじゃない」耳元の声は言った。「実に罪深い」
「君は悪魔か?」男は尋ねた。
「いや」耳元の声は答えた。「どうだろう? わからないな。悪魔は君じゃないか?」
「そうかもしれない」男は口元に軽く笑みを浮かべた。「君はわたしのなにを知っている?」
「なにも」そして「なんでも」
 男は息をついた。「君は誰だ?」
「ロックンロール」と、その声は言った。

 人々が祈りを捧げるほんの数ブロック先で、ひとりの若い警官が倒れている。まだ死んでいないが、じきに死ぬ。なぜなら、ブロックで頭を繰り返し殴打されているからだ。
 彼がなぜそんな目に遭っているかといえば、それは彼が警官の制服を着ていたからだ。警官の装備一通りを所持していたからだ。つまるところ、彼が警官だからだった。もしも彼が裸だったらそんな目には遭わなかっただろうか? それはわからない。
 彼についてはそれほど多くは語られない。なぜなら、もうじき死んでしまうからだ。もちろん、そこに至るまでの彼の人生がある。赤ん坊だった彼はその母親の乳首を口に含み、母乳を飲んだであろうし、おねしょをして叱られたことがあったかもしれない。学校のテストでいい点を取ってこともあれば、不良に殴られたこともあったかもしれない。恋人はいただろうか? 夢はあった? どんな未来を思い描いていた?
 彼はもうその質問に答えることができない。彼の頭蓋は卵の殻みたいに割られ、その中の脳漿はもう取り返しがつかないほど痛めつけられていて、言葉を話すことはおろか、なにかを考えることもできないからだ。
 彼については特になにも語られない。
 残酷なことである。
 おそらくであるが、彼はこんな未来は思い描いていなかっただろう。道端でブロックで殴打されながら死ぬ。
 ああ、なんて残酷な世界。
 彼を殴打していた暴徒についても多くは語られない。もちろんその暴徒にもそこに至るまでの人生があったし、自分が警官をブロックで殴打して死に至らしめる未来を思い描いていたとは思えない。卒業文集の将来の夢の欄に「警官をブロックでぶん殴ってぶっ殺すこと」と書く子どもは多分いない。その暴徒もそう書かなかっただろう。
 この暴徒についても多くが語られないのは、この暴徒もまたじき死ぬからである。今のところピンピンしていて、元気に警官を殴っているが、じきに死ぬ。
 若い警官がピクリともしなくなったことに気づいたこの暴徒は、警官の腰のあたりをまさぐった。息は荒く、目は血走っている。
「あった」
 拳銃。黒いそれは、艶めかしく光っている。
 暴徒はそれを持って逃げようとした。他の警官たちの声が聞こえる。走り出そうとして、手にした拳銃が引っ張られてよろめいた。倒れている若い警官の腰と拳銃が紐で繋がれていたのだ。暴徒はまた警官の腰のあたりをまさぐり、どうにかそれを外そうとする。焦れば焦るほどうまくいかない。足音が聞こえた。走っている。警官か? 暴徒は悪態をつき、拳銃を諦めるという考えが頭をよぎった瞬間にそれは外れる。
 暴徒は慌てて走り出し、路地から飛び出した。
 暴徒の視界が真っ白になる。光? 光。ヘッドライト? ヘッドライトだ。トラック? 固く、冷たい。衝撃。
 暴徒は跳ね飛ばされ、道路に叩きつけられ、死んだ。
 きっと、こんな未来を思い描いてはいなかっただろう。
 手にしていた拳銃はその衝撃でどこかに飛んでいってしまった。
 それはまだ一発も発射されていない。
 まだ。

 少年は背中にアスファルトの冷たさと硬さを感じていた。なぜなら、少年はアスファルトの道路に横たわっているからだ。別に好き好んでアスファルトの道路に横たわっているのではない。
 そこは寝るにはいささか硬すぎるし、冷たすぎる。
 少年がそこに横たわっているのは、暴徒のひとりに殴り倒されたからだ。なぜ殴り倒されたのかはわからない。殴り倒された少年に殴り倒されるような心当たりはなかった。そんな必然性はどこにもなかった。自分が殴り倒される必然性があると感じている人間がいるのかどうかはひとまず置いておくとして。
 あるいは、殴り倒した方にもその理由はわからなかったのかもしれない。
 そんなものだ。誰も自分がなぜそんな真似をしているのか理解していない。でなければ、ただの紙切れや、ある特定の人物や、団体を崇め、そのために殺し合いをする理由が説明できない。
 この世界では、誰もが心神耗弱状態だ。責任能力にはいささかの疑いがある。
 理由が説明できなかろうと、殴られれば痛いし、血が流れる。アスファルトの道路に大の字になった少年の鼻の穴からは血が流れている。
 誰かが少年の傍らを駆け抜けていった。他の誰かがそれを叫び声を上げながら追っている。なにかが投げられ、少年の上を横切っていった。
 誰ひとりとして、そこに少年が横たわっていることに注意を払わない。別にみんな少年が彼の自由意志でそこに横たわっているのだと思っているわけではない。あまりにも多くの人間が地面で横たわっているし、そもそも逃げたり追ったりで忙しくて他人に関心を払う心のゆとりも、余地もないのだ。
 残念ながら。
 ああ、なんてすばらしき世界。
 少年は目を閉じた。そうして、自分の見ている世界を消し去れば、世界が消しされるのではないかと期待したのだ。もちろん、そんなことはできない。世界は厳然としてあり、少年はそこに横たわっている。
 誰かが少年の横にたった。少年はまだ目を閉じたままだが、耳元で足音を聞いたからだ。
 少年はゆっくりと目を開いた。誰かが自分を見下ろしている。街頭の明かりを背中にしていえ、その顔はよく見えない。完全に影になっている。
「眠ってるの?」少年を見下ろすその影は少年に尋ねた。その声は少しかすれているけど、女の子の声のように聞こえた。
「いや」と、少年は言った。「目をつぶっていただけ」
「どうして?」影は尋ねた。
「どうして?」少年は尋ね返した。特に答えがなかったからだ。「別に理由はないよ」
「ふうん」影の方にも特に関心はなさそうだ。「血が出てるよ」
「そうだね」と言いながら、少年はそれを拭った。着ていたシャツの袖が真っ赤になった。
「大丈夫?」影は言った。
「大丈夫?」
「血」
「血?」
「ねえ」と、影は少し不機嫌そうに言った。「なんでも聞き返さなきゃ気がすまないの?」
「ごめん」
「いいけど」影は肩をすくめた。
「慣れているから」少年は言った。
「なにが?」
「血を流すこと」
「血を流すのに慣れているの?」
「今度は君が聞き返したね」
 影は少し黙った。少年は身を起こした。自分を見下ろしていた影を見る。華奢な体をした、女の子だ。ヨレヨレでブカブカのTシャツ、ピッタリとしたデニムの中の足はちょっとなにかにぶつかったら折れてしまいそうなほどに細い。履いているブーツがやけに大きく見える。
「なに?」女の子は挑むような調子でそう言った。「なにか?」
少年は少女の顔を見ていた。「どうして」と、少年は言った。「どうしてウサギの仮面をしているの?」
 そのウサギの仮面で覆われた顔の、瞳が少年をじっと見つめる。それは実に精巧に作られたもので、本物のウサギの頭を刈り取って来てつけたのだと言われても信じてしまいそうな代物である。それの目の部分は穴が空いていて、その奥に女の子の瞳が垣間見える。それが少年をじっと見ている。睨みつけていると言ってもいいくらい、じっと。少年は思わずツバを飲み込んだ。自分が間違ったことを聞いてしまったような気がした。
「いい?」ウサギの仮面をした女の子は努めて平静を装いながらというのがありありと見て取れるくらい苛立ちをあらわに言った。「二度とそのことは聞かないで」
「うん」少年はそう言ってうなずいた。「わかった」
「名前は?」ウサギの仮面の女の子は尋ねた。
「サッドマシーン」少年は答えた。
「あたしはファニーバニー」
「うん」サッドマシーンは言った。
「うん、って」ファニーバニーは言った。「なんかあたしのこと知ってたみたいな反応だけど、あんたあたしのこと知らなかったでしょ?」
「うん」サッドマシーンはうなずいた。
「そうやって」と、ファニーバニーは腰に手を当てた。「なんでもかんでも受け入れちゃうのやめな」
「うん」サッドマシーンはうなずいた。「わかった」
ファニーバニーは思わず吹き出した。「あんた馬鹿なの?」
「どうかな?」サッドマシーンは首をかしげた。
「よろしい」ファニーバニーは満足そうにうなずいた。

 これは少女と少年が出会う物語だ。多様性の時代である。別に少女と少年でなくても良かったのだけれど、残念ながらもう出会ってしまった。
 ファニーバニーと、サッドマシーンは出会った。
 これは彼らの物語だ。


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