クラシエさんとの「夢中」座談会

夢中グリーンのマイケルです。先日kracieのスタッフの方や、我々LCL Bチームの4人、同じくLCLのOBの方や別のチームの方々と「夢中」について座談会を開きました!

この記事では、先日行われた「夢中」座談会を通して、自分が考えたことをまとめていきたいと思います。

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改めて、「夢中」とは

他のメンバーの話を聞いていると、それぞれの定義がありました。例えば、毎朝本の朗読に夢中になっている人がいれば、子育てに夢中になっている方もおられました。
それぞれの「夢中」を聞いていると、それは「習慣」かな?それは好きの延長かな?など、少し自分の「夢中」とズレがありました。もちろん人によって定義は異なるものなので、否定はしません。

この座談会を通して、改めて「夢中」とは「時を忘れるほど没頭すること」だと考えました。時を忘れるほど「没頭」できることこそが、「夢中」だと。

夢中グリーンの話をすると、先日、職場の教室を掃除していました。16時半から始めた掃除でしたが、気づけば18時を超えていて、同僚はほとんど帰っていました。
この掃除中、私は時計を見ることがありませんでした。「時計を見ない」というのも、「夢中」への入り口へ繋がっているのかもしれません。

ディズニーランドは「夢の国」ではなく、「夢中の国」なのか?

皆さんの知っているディズニーランドには時計がないという話があります(実際は数個あるようです)。
ディズニーランドは「夢の国」を目指し、現実を思い出す「時計」や「鏡」をできるだけ置かないようにしているそうです。

私の定義する「夢中」で言えば、ディズニーランドは「夢中の国」ということになります。時間を忘れ、没頭できる空間ということになります。

しかし、もう一つの私の定義でいくと、「夢中」は自分から「夢中になる!」と思ってなれるものではないものです。つまり、「夢中」をコントロールすることはできないのです。

確かに、自分が好きなことや得意なことをする時、自ずと時間を忘れることがあるかもしれません。しかし、それは「夢中」ではなく、「集中」に近い状態だと考えます。
ディズニーランドは自分から好きでいく人が多いと思います。なので「夢中」とは言えないのかな??
文章打ちながら頭が混乱してきたので、次の話題へいきます・・

消費的な夢中はあるのか

座談会のテーマになった「消費的な夢中」について、最後にお話ししたいと思います。「消費的な夢中」、つまり、「無駄な夢中」は存在するのかというお話です。

そもそも我々Bチームの考えとしては、「夢中は人生を豊かにするもの」という考え方がありました。しかし、「夢中」になることで不幸になる可能性があるという話が出ました。

それが「依存」です。例えば、子どもたちがゲームに「夢中」になるとします。時間を忘れ、夜遅くまで没頭します。今はオンラインゲームが盛んになってきているので、友達と離れた場所でゲームを楽しめることができます。

ここで問題になるのが、睡眠不足と学習能力の低下です。ゲームにより勉強する時間が減り、睡眠不足により、学校の授業にも集中できなくなります。
すると心配するのが、その子の家族です。テストの点数が落ち込み、目覚める時間も遅く、次第に学校を休むようになるかもしれません。

学校や勉強が全てとは言えませんが、このような状況になった時、周りの家族や友達がもしかすると心配する可能性があります。ゲームに「夢中」になる本人は楽しいかもしれませんが、周りにいる人たちは「幸せ」と言えるのでしょうか。
この状態は、ゲームに「夢中」ではなく、ゲームに「依存」しているのではないでしょうか。

個人の「夢中」が他者を「不幸」にしている可能性があるのかなと、改めて座談会を通して考えました。

「夢中」について少しは見えてきた気がしましたが、まだまだ奥が深いです。これからも「夢中」について、探究していきたいと思います。


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