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偽物が本物に変身するとき

私はSNSが結構好きです。
noteも始めて数回ですが、アウトプット大好きだけど自撮りとか苦手な私には向いてるSNSだな、と思っています。

SNSはちょっと時間が空いたときに、簡単に欲しい情報を得るにはもってこいのツールです。
ちなみに私がよくSNSで検索するのは「◯◯町 ランチ」とか「◯◯ ラーメン」です。
写真付きの分かりやすい情報を簡単に手に入れられるし、住所や駐車場の有無まで書いてくれたりしていてとても助かります。

ただSNSも玉石混交です。
例えばおいしいラーメン屋をSNSで検索したけど、おいしくなかった場合は、投稿者と私の好みが違ったのかなぁ、なんて個人の問題として終結させることができます。
つまり、SNSで見たラーメン屋の情報が間違っているとは決して言えません。

でも、最近「◯歳のうちに××しないとヤバい」とか「△△は早めにしておけ」なんて感情を煽るサムネや看板をはっつけて、デタラメな、あるいは一部を切り取ってさもそれが全てだと断言しているようなものをよく目にします。

それを見るたびに、学術論文におきたソーカル事件を思い出します。
ソーカル事件とは、1995年にニューヨーク大学の物理学者ソーカルが、内容はでたらめだけど、難解な物理学や数学の専門用語を散りばめた論文わわ執筆、学術誌「ソーシャル•テキスト」に投稿、掲載された事件です。
何がダメかと言うと、学術レベル云々ではなく、超テキトーなことを小難しく書いただけで「コレは学術誌に掲載するにふさわしい!」と編集部の誰も引っかかりもしなかったことです。

カーソル事件でわかるように、なんとなく小難しい言葉を使ってテキストにするだけで「コレは頭がいい人が書いているに違いない。ということは、まず間違っていないだろう」みたいな誤解の種が植え付けられます。
これが一般に公開されたら「うん、一般に公開してもいいレベルなら、誰かがチェックしているんだろう。じゃあ絶対あっているはずた。」となり、デタラメかどうか判断するのがもう一つ難しくなります。

カーソル事件の場合、そもそも「ソーシャルテキスト」に専門家による査読システムがなかったことが第一の問題があるように思います。
でも、現代の「ソーシャルテキスト」はSNSでもあるのです。

SNSは誰かが査読するわけでも、第三者が編集するわけでも、検証するわけでもありません。
「ラーメンおいしいよ」と同じフィールドに「研究者は◯◯と言っているので、××しないとヤバい」が載ってしまうのです。

「ラーメンおいしいよ」は、先にも言った通り個人の好みもあるし、店主の味付けの変化もあるでしょう。「情報が違った」ことはただの個人の問題です。
決してデタラメではありません。
それに、見た情報が違ったとしても「次はこのお店には行かないかなぁー」程度で終わるくらいではないでしょうか。

しかし、「研究者は◯◯と言っているので、××しないとヤバい」は、その情報が間違っていた場合、ただ研究者の威を借りてデタラメを流していることになります。
このデタラメが及ぼす影響は計り知れず、それを信じて実践する人にも影響がありますし、回り回って研究者が「お前、デタラメな学説をいってるだろう!」と怒られ、信用に傷がつく可能性すらあります。

この一般の人が食いつきそうな話題を、少しだけ難しい言葉を用いて、さもそれが正しいかのように振舞うことの罪の重さはなかなか人によって感じ方が違います。
私個人の所感で言えば、専門知識がある人ほど断言を避けます。
その結果に至るまでに多くの要因があり、単純な過程ではないことを知っているからです。

先に述べたカーソルのデタラメ論文は、構造主義へのアンチテーゼとしての試みでした。
しかし、SNSに溢れるなんとなく合ってそうな感じのする小難しい話には深みがないものがあります。
もちろん全てがくだらないデタラメだとは言いませんが、鵜呑みにしない注意深さは必要かもしれません。

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