見出し画像

本は愛おしいけど読書苦手な人です。

世の中には、
・本がないと生きて行けないレベルの本好きな人
・本なんてもう何年も手にしたことすらない人
がいると思います。
特に後者のタイプはSNSが広がってから増えているように思います。

私はどちらかと言えば本は好きです。
図書館や本屋に立ち寄っては「この本読みたい」「これ借りよう」なんて思うのが幸せな時間のひとつです。
あと、人から「コレおもしろかったよ!」とすすめられた本はメモするなりAmazonのカートに入れておいて、いつか読もうと思ったりもしています。

しかし、私がこれらの本を読了するのは稀です。
もう一度言いますが、本は好きです。
筆者へのリスペクトもあります。

なぜ本は好きでも読書が苦手なのか。
実はこの悩みは人になかなか共有できませんでした。
私の周りには読書家が多く、こんな悩みを話したところで理解してもらえないんじゃないかという不安。
そして「大学院まで出て本の一冊読み終えられないの?」と言われたら恥ずかしいという無駄なプライド。
そんなくだらない気持ちがアウトプットさせませんでした。

でも、ここはあくまでSNS
あけっぴろげにしてもいいんではないかと思い、コレについて自分なりに考えてみました。

もちろん読める本もある

学生時代は東野圭吾やら宮部みゆき、奥田英朗の小説にハマっていたし、純文学も一応読んでみました。
ちなみに今でも私の中の不動のNo. 1は三島由紀夫の『不道徳教育講座』です。
軽快なストーリーで進む小説はむしろサクサク読めて最後まで読み切ります。

そして不思議なことに小説だと頭の中でストーリーが自由に展開できるから好きだけど、ドラマになるとハマらないということがおきます。
例えば有名な『容疑者Xの献身』では、ダルマと呼ばれていた冴えない数学教師を堤真一が演じていて「いや!それはねーよ!」と言う感情が湧いてきてもう入り込めませんでした。

そして、学術論文も読めます。
読めます、と言うとサクサクすらすら読めるように思われるのですが、正確には読めるようになった。です。
知識量が乏しいときには、一行読んで知らない学術用語や専門用語が出てくると、その定義を当たらなければいけません。
そうすると別の本が必要になり、一冊読み切るまでに膨大な時間を要します。
それでも理解力がないと、指導教官やゼミ生から徹底的に甘さを指摘されます。
知識量が増えていくにつれて、少しずつスピードが上がり、解像度が上がってくるので、読むこと自体の負担はかなり減りました。
そして論文を読むコツもわかってくるので、今ではそれほど嫌だなぁ、と思わなくなりました。

読めない本とは

私が読了できないのは小説などのストーリーではない一般書です。
例えば自己啓発本とかビジネス指南書もそうですし、歴史など、ある分野における教養として売られている本です。

最初は良いです。
「はじめに」の部分では、だいたい筆者がこの本に込めた思いや、出版に至る経緯、この本が持つ社会的意義などが書かれています。
コレを読むのは楽しいし、ワクワク感が高まります。

でも、一章、二章と読みすすめていくうちにどんどん頭の中が騒がしくなっていきます。
例えば、一節に「ルビコン川を渡った」のように知らない言葉や表現が出てきたとします。
理解にさほど影響しないのですっ飛ばせばいいのに、
「ルビコン川って何?」
「ああ、イタリアにある川なのか」
「紀元前50年ごろ、ユリウス・カエサルが言った言葉なのか」
「ユリウス•カエサルがなぜルビコン川渡るのに背水の陣だ!と思ってたの?」
などなど、どーでもいい疑問が湧いてきて、すぐWikipediaを開いてしまう。

これの連続なので、どんどん読むことに疲弊していって、最終的には嫌になって放り投げてしまう、というオチです。
集中力もなければ、教養もないので引っかかる部分が多ければ多いほど読むのが億劫になり、最後まで読むことができません。
もちろん、最後まで読み切った本もいくつかありますが、それでも一気に集中してガッと読むことはできていません。

ストーリー理解だと途中で終わるのは気持ち悪いから最後まで読みたい、と思うし、論文だったら最後まで読まないと必要な情報は得られません。
でも、一般書の教養本や自己啓発本なんかは途中で終わっても、まぁいっか、で終わってしまうなです。

本当に筆者の方には申し訳ないと思いながら、どんどん積読は増えていきます。
あとは、シンプルに読書だけに割ける時間があまりないことも理由(言い訳)の一つです。

もう少し時間に余裕が出て、自分自身の教養や知識が深まれば、最後まで読み切る本が増えるかもしれません。
がんばります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?