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お茶好きの隠居のカーヴィング作品とエッセイ-昔ばなし


18.  タヌキ


創作狂言、茶の湯

狸: このあたりに住む狸でござる。
今日(こんにった)も人を誑(たぶらか)さんと存ずる。 これにある橋のたもとにて誑(たぶらか)されやすき者を待ち付けむと存ずる。

主:これはこのあたりに住まい致す茶の湯を嗜む者です。 明日(みょうじつ)は茶会をもよほすによって、菓子を誂(あつら)えむと存ずる。
太郎冠者あるか。
太: はあ。
主: いたか。
太: お前に。 
主: 念なう早かった。 汝を呼びいだすは別(べち)なることでもない。汝も知るとおり、明日は茶会なれば、菓子を誂(あつら)えて来い。
太: 畏まってござる。
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頼うだおかたは近頃、茶の湯とやらに身をなし、それゆゑの雑事(ざふじ)がひとしほ増えて迷惑なことじゃ。 太郎冠者ばかりがこのように使われては身も骨も続くことではない。
来るほどに、あれに茶屋がある。 ちと休みて参ろう。
おお、これは、可愛ゆふ女(め)の子、酒をひとつ所望じゃ。
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あー、チト酔うた。 やや、これはいかなこと、なんと女(め)の子の尻に出ているのはなんじゃ
あれあれ、尻尾のようなものが見ゆる。 身共はそれほどに酔うたか。
いやいや、そうではない。 たしかに尻尾じゃ。
やいやい、女(め)の子、そなたはなにものじゃ。
狸:はーっはっはっはっはっはっ、身共はこの辺りに住む狸でござる。 今宵も人を誑(たぶらか)さんとし、往き掛かるこなたをまんまと誑(たぶらか)したということじゃ。
太: なんと、身共が狸に誑(たぶらか)されたと、悔しや。
---いや、いたしようがある。
のう、狸、誑(たぶらか)しついでに、もう一つ面白いことをせぬか。
狸: なんじゃと。

太: 身共が頼うだおかたは近頃、茶の湯とやらに身をなし、やれ天目じゃ、やれ棗(なつめ)じゃ、と騒ぎ迷惑なことじゃ。 今日(こんにった)も身共は明日(みょうじつ)の茶会に出す菓子を誂(あつら)えしところでござる。 いかがはせむと思うていたところじゃ。 そなたに頼むが、我が頼うだおかたをも誑(たぶらか)し、よって、頼うだおかたの茶の湯の熱をさまさせてもらいたいのじゃ。
狸: それは面白かろう。 して、いかようにする積りじゃ。
太: 明日、身共はそなたを茶室にひきいれる故、そこで菓子の器に化け、菓子を盛られて客の前に運ばれよ。 亭主たる頼うだおかたが菓子を客に勧むるをしほ、汝は客の前で実の姿を現し、菓子を食え、皆人が驚き慌てる間(ま)に茶室より中庭を伝ひて逃げよ。 頼うだおかたは客の前で恥をみることになり、それをふしに茶の湯をやめるであらうぞ。
狸:さてもさても、おもしろそうなことじゃ。 心得た。 こなたの望み申すようにしてやらうぞ。
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主=茶席亭主: 菓子を召されませ。
主客: 頂きまする。 --+*×〇※#?! あなや、これはいかなこと、た、た、たぬきが菓子を---

--- 主=亭主: あ、あ、これ、太郎冠者、太郎冠者あるか。
太: はあ。
主: 太郎冠者、これ見よ。 菓子器が狸になった。
太: やや、これはいかなこと。 不思議なことでござる。 菓子器が、狸が逃がるるぞ、逃がるるぞ。 はて疾く逃るることよ。
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主: やいやい太郎冠者、これは如何に起こりしことぞや、彼の狸は如何にして茶室にまで紛れて入ったか。 真っ直ぐに言え。
太: わたくしにも合点が参りませぬ。 
主: ふむ。 汝にも合点がいかぬと申すか。 
太: なかなか。
主: 如何にかく言うぞ。 この茶室は当屋敷の堂奥にあるゆゑ、内内(うちうち)のことを知りし者の手引きなしには誰も、まして畜生なぞは入れぬ。 なんとも心得ぬことであらうぞ。 やい、太郎冠者、さてさて、汝が彼の狸を引き入れたのであらうぞ。
太:まずお待ちなされませ。
主:なんと待てとは、真っ直ぐに言え。
太:申しまする。申しまする。こなたさまは近頃茶の湯に身をなしておらるるあひだ、そろそろ、絶ち給うべき時とおもひ、わたくしを誑(たぶらか)した狸と相謀りましたことでござりまする。
主:なんと、茶の湯は高士の心得にして某(それがし)の一(いち)に好むところぞ。 おのれはそこを心得ず、さしすぐることをし、客の前でわが身に恥をかかせた。 許さぬぞ。 
太:ああご許されませご許されませ。
主:何の許せとは、あの横着者。
太:ご許されませご許されませ。
主:やるまいぞやるまいぞ。
太:ご許されませご許されませ。
主:やるまいぞやるまいぞ。
太:ご許されませご許されませ。
主:やるまいぞやるまいぞ。

旋頭歌

生きものの 有りようを化す 気候の移り
タヌキをも 化け損わす 熱帯の夜

熱帯の 小さき虫の 恐ろしきかな
千古より 繁りし森を 瞬時に滅ぼす

千古より 続きし氷河 消え去りぬ国
アルプスの 魅力消ゆれば 国の基礎揺る

千古より 変わらぬ海流 変り始めり
極洋の 有りようも化す 気候の移り

エッセー

以前にはキツネについて書きました (記事4)。 我が国ではキツネとくれば、次はタヌキと相場が決まっているので、タヌキにも登場してもらわないとバランスが悪いと思います。 今回はちょっと遊んで、タヌキとキツネのピアノトリオ、名付けてピアノ狐狸尾を作ってみました。

ピアノ狐狸尾

日本では、色々の局面でタヌキとキツネがほとんど対をなして出てきます。 言うまでもなく、彼等が人を化かす動物の双璧と考えられているからです。 ただ、キツネと比べてタヌキは愛嬌のある性格で捉えられており、キツネの方はより妖怪じみた扱いを受けているようです。 これはこの2種の動物の実際の姿、生態から我々が受ける印象を反映してのことでしょう。 タヌキについて良く知りたければ、お勧めの本が有ります。 佐伯 緑著「What is Tanuki?」です。(東京大学出版会、2022年) タヌキの分類学上の位置、生態、人間社会との関わり、その他あらゆる面について、著者は並々ならない愛情を以てタヌキに向き合いこの本を書いています。
この本ではタヌキとキツネの人を化かす、人に化ける民話についても解説していますが、化かす、化ける動物の噺としてタヌキがこれ程多く取り上げられているのは日本だけだそうです。 しかもその理由は良く分からないが、四国地方、佐渡に偏在しているそうです。 キツネの項でも触れましたが、ヨーロッパ文化圏では本来、動物が主体的に人間に変身する話は殆どなく、その逆、特に神様や魔法使いによって人が動・植物に変身させられる話が圧倒的に多いようです。 私は、これをヨーロッパ人のヒューマニズム=人間主体主義に基づくのであろうと推測しています。 万物の霊長である人間に、それより劣る他の動・植物をして変身させることなど許し難いのです。 一方、アジアでは人間は自然の一部であって、その意味で、人間と他の動・植物は対等です。 動物の種類こそ国・地域により様々ですが、動物が人間に化け、人を騙す話はアジア圏では沢山あるのです。 佐伯博士は「人が動物を畏敬・畏怖し、同化を願うほどの憧憬が潜在していたのは、万国共通であろう」と書いています。 私は、それが万国共通であるかどうかは上記の理由で確信が持てませんが、少なくとも、東方文化圏に関しては正しい認識と思います。 人を化かす動物の種類は、その国、地方で特に親しまれていたり、恐れられていたりする種類から選ばれるのでしょう。 ロシア人は極東に近い地域に住んでいるからか、ヨーロッパの他民族と異なり狼が人に変身して騙す噺を持っているそうです。(佐伯、同上著書) 中国本土では、「9尾の狐」に代表され、それが日本に伝わったように、キツネがその代表格です。 ところが同じ中国領でも、黄海の孤島、海洋島にはキツネが住んでいないので、代わりに島の住人はネズミに化かされるそうです。(内田惠太郎「稚魚を求めて」岩波新書、1964)要は、どんな動物でも良いから「人は動物に化かされたい」ということなのでしょうか?

我が国では、タヌキやキツネを神格化する位ですから(キツネは稲荷のお使いで、神様自体ではないが、狸は自体が神様になっている)、化け噺を好む傾向が顕著と言わざるを得ません。 讃岐や佐渡のタヌキの化かし合い合戦譚は、地域的に限られるとは言え、昔の日本人が本気でこれらの話を信じていたのかドイツの「ほら吹き男爵」の話と同様に、ほら話を楽しんでいただけなのか良くわかりません。 が、神格化されたタヌキを祀る寺社が多数、実在することも事実です。 尤も、この国では四谷怪談のお岩さんがお岩大明神になるように、フィクションの物語の主人公が神格化されるのは珍しくありませんし、野球のクローザー投手を守護神と言い、もはや、大昔になりましたが、かっての佐々木投手のように大魔神と呼ばれ、面白半分であっても、生きながら大明神に奉られた例があります。 タヌキを祀っても全然、不思議ではない下地が有るのです。 元々、八百万の神々の人口(神口?)が一つ、二つ増えることはどうでも良い話で、日本人のアニミズムはそれ位軽々しいと言えるのでしょう。
ドナルド・キーンは、その著書、「碧い目の太郎冠者」で、屋島寺に行った時の話として、寺の看板に「屋島の禿狸(=讃岐の太三郎=蓑山大明神--佐伯、同上著書による)は佐渡の団三郎狸(=二つ岩大明神--佐伯、同上著書による)、淡路の芝右衛門狸と共に、日本三名狸の一つで、四国狸の御大将と仰がれ、その化け方の高尚と妙技は日本一であった」とあるのを見て、 「であった」という文字を読むとがっかりした。 「である」の方が面白く宝物館のさびた古鐘よりも狸の高尚な化け方が私の興味をそそる。 が「であった」と書いてあったから、おそらく四国狸の御大将はもう妙技を忘れて、どこかの田舎で平凡な狸として暮らしている。 或いは、東京へ行ったかも知れない」、と評しています。 アメリカ人としては奇跡的と思われる程、日本の古典に精通した学者であった、と言われるこの人でも、この手の噺は、茶化すしかなかったようです。

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