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くまとハチ公前で待ち合わせる

 くまとハチ公前で待ち合わせる。本当は余裕を持って着いておくつもりだったけれど、時間の見立てが甘くてぎりぎりになってしまった。エスカレーターを駆け降りて、横断歩道の向こうにくまを見つける。遅れてごめんなさい、と駆け寄っていくと、文庫本を離れて街頭の時計、そして私の顔へと視線を巡らせ、
「約束の時間には間に合っているかと思いますよ。」
とにっこり笑ってくれる。人混みの中でなんとなく体を細めてはいるけれど、それでもくまはとても大きい。電車なんか大変でしょう。私がそう言うと、「むしろ改札の方が難儀するのです。体がつっかえてしまいまして。」
駅員の方に迷惑をかけてしまいました、としょんぼりするくまは少し可愛かった。もう少し節制しないとダメですな、という言葉は冗談なのか本気なのかわからなかったので曖昧に笑っておく。


 信号が青になった。きっと、くまの故郷にはこれほど多くの動物はいなかったはずである。こういうところは苦手だったりする?とくまに聞く。返事は意外にもノーだった。
「渋谷は好きです。みんな僕のことなんて気にしませんから。」
確かに、と思った。くまと出かけるときはいつも奇異の視線を受けるものだが、ここではそんな感じはしない。今渡っているこの交差点では、ぶつからないようお互いを避けてはいるけれど、それ以上の関わりは何もない。いわば、関わらないようにするという一点でのみお互いのことを意識している。それは少し悲しく聞こえるけれど、実際に体験してみると心地良くもある。


 109で買い物をする。くまと一緒の時はなるべくお店には行かないようにしていたけれど、くまも近所の古着屋を回ってみたりするという話を聞いて、そんな気遣いも不自然だなと気づいた。
「そういえば」
試着室で二つのサイズを行ったり来たりしていると、くまがふと鼻先を私に向けた。「ここの近くに、私が大学生の時に住んでいたアパートがあるのです。」なんと、渋谷に住むなんて贅沢をしていたのかと思ったが、流石に渋谷からは離れるらしい。東急の横を抜けて坂を登っていくと住宅街に入り、大学らしき建物があった。その周囲に沿って進んでいく。確かに地続きであるはずなのに、さっきまでとは全く別の世界に来たようである。

「ここです。」
地震にはなんとか耐えられそうだけど、かなり年季の入ったアパートだった。蔦も這っている。
「二階に住んでおりましてね、寝返りなどは随分気を使いました。」くまの寝返りがそんなに大きな音を立てていた覚えはないが、そこはやはり色々と気を使う事情があったのだろう。くまが住んでいたという部屋のベランダをみると、ジャージやらパンツやらが干してある。
「実をいうと、引っ越してからここに来るのは避けていたのです。」
どうして?
「こういう景色を見ますと、なんだか、自分がここにいたという証が消えてしまうような気がしまして。」
私の隣にいるよ、とくまに言う。くまはいつもみたいにこちらを見てくれはしなかった。だからどんな顔をしていたかはわからないけれど、ありがとうという言葉は穏やかだった。


「良い居酒屋さんがあるのです。私が学生の頃にできた店で、知人の話では今でもやっているそうで。」
ちょうどいいね、と言った。くまは少し笑った。

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