箱庭の青春【小説・完結】

あらすじ
願えば雪を降らせることが出来る力を持っている香苗、外に出ると寿命が縮んでしまう体質の雪。その体質には、命の期限があり二人がとある理由で出会った時には、互いに残り2週間しか生きられない身体になっていた。
それでも2人は笑い合いながら、精一杯生きようとした。
これは、二人の生きた証を綴った軌跡の物語。

#創作大賞2023
#ファンタジー小説部門

第一章 
 後一カ月と告げられた。そう告げられてもそうか、としか思えなかった。特に体調は悪くないし、前と変わったところはない。私は病気ではないのだ。なら、何なのか。もちろん、後一カ月というのは寿命だ。物心がついた時から、ずっと分かっていた。私は、普通の人間ではない。少し、いやだいぶ変わった力を生まれながらにして持っていた。その力、とは自由に雪を降らせることが出来る、というものだった。遺伝とかではない。私だけが、その力を持っていた。
 初めてその力を知ったのは、小学校に入る前の冬の日だった。その年の冬は、例年に比べて暖かかったのだ。私は、一度もホワイトクリスマスを体験していなくて今年こそは、ホワイトクリスマスになって欲しいな、と思っていた。だけど、クリスマス当日やはり雪は降らなかった。それでも諦め切れなくて夜、べランダに出て空を見上げた。そうして願ったのだ。

雪を見させて、と。ホワイトクリスマスがいいの、と。

 そうしてしばらくするとぽつ、と何かが頬にあたった。それからぽつ、ぽつ、とそれは降り続けた。何が起こったのかよくわからなかった。雪なんて降りそうにない寒さなのに、気がついたら降り始めていたのだ。雪を見たい、と強く願ってから振り始めたのは、私の想いが神様に通じたのだろう。早くこの奇跡を伝えたくて、下の階にいる両親のところへと走った。

「お母さん、お父さん! 外、雪降ってるよホワイトクリスマスになったよ!」

 私のその言葉に今日、雪の予報だっただろうか……というように二人は不思議そうに窓の外を見た。私も窓の外を見た。だけど、そこに雪は降っていなかった。

「降っていないじゃない。夢でも見ていたんじゃないの?」
「夢の中で見られたのならよかったな」
「違うよ! 雪が降って欲しいって、願ったら降ってきたんだよ!」

 両親は変なものを見るような目で、私を見た。初めて見る両親のその表情に心臓は、ずきんと痛んだ。そこにいたくなくて、自分の部屋へと走って戻った。

 部屋に戻ってから、わけがわからずに泣いた。ついさっきまで、嬉しい気持ちで一杯だったはずなのにどうして。だけど、幼いながらになんとなく自分は、他の人とは違うものを持っているのかもしれない、と少し思い始めていた。

 次の日、図書館に行って色んな本を読み漁った。そして、もしかしてと思うものを見つけた。現実的ではないけれど、物語の中で特殊な能力を持った人々が活躍するお話を読んだ。未来を見る力がある人、空を飛べる人、怪我を治せる人、などなど。その人たちもやはりその力を使いたい、と願うと使えたという人ばかりだった。そうして思ったのだ。こないだ起きた現象は私の特殊能力なのではないか、と。両親には見えていなかった。私が違うことを考えれば、雪は消えてしまっていた。それが証拠だ。信じられないけれど、そう思うしかなかった。それ以外の考えは、思いつかなかったのだ。変な力を持ってしまったものだ。どうせなら未来を見られる力とかが欲しかったなぁ、なんて思う。雪を降らせられる力、なんてなんの役にも立たなさそうだ。

 大して良い力でもないのに、この力は使う度に寿命が縮んでいくというデメリットを持っていたことを私は後から知った。

 その減り方は不規則で気づいた時には、残り一カ月となってしまっていたのだ。変な力だ、と思いつつも使ってしまっていたということ。子どもの私にとっては、特殊能力がある自分がすごいと思ったのだろう。たくさんの人に、この力を見て欲しくて学校で雪を降らせてみたりした。小学生の頃にそうやって遊んでいたら、もちろん気味悪がられて、中学生になる頃には友達は一人もいなかった。面白がる人はいたけれど、力を使うのをやめられなかった。いじめられたりしたら、雪を降らせて寒い思いをさせた。たくさん雪で、いじめ返した。そんな私を先生たちも気味悪がって、両親が学校に呼ばれたりもした。両親は、先生たちが何を言っているのかよくわからない、という顔をしていたけれど私がいけない行ためをしている、というのは感じたらしい。私はどうして、いじめられたらいじめ返すのが駄目なのかがわからなかった。そうしていくうちに両親との関係も悪くなっていって、高校生になる頃には、すっかり私の心は荒んでいた。

 高校生の中盤頃に、異変が起きた。高校に行っても結局いじめられていて、その日も仕返しに、と思って力を使おうとしたのだ。場所はトイレだった。よくある上から水をかけられる、といういじめだ。水よりももっと冷たい雪で、仕返しをしてやろうと思ったのに。力を使おうとしても使えなくて、苦しくなったのだ。苦しくて、私は叫んだ。だけど誰も助けてなんてくれなくて、トイレの中で一人蹲っていた。吐ける場所が目の前にあるのに、吐くこともできなくて。こんなのは初めてでどうしたらいいのか、わからなかった。しばらくじっとしていたら、その場は治まってくれたけれど、怖くて誰かに相談したかった。病気ではないから、病院に行っても仕方がない。

 両親に正直に話してみたら心当たりがあると教えてくれた。父親の知人に、極稀に生まれる特殊な能力を持った人の相談に乗って研究をしている人がいたのだ。そうして、この力にデメリットがある事実を知った。わけがわからずに泣いた。今まで、いったいどれだけの人生を無駄にしてきたのだろう、と。悲しくて、悔しくて、もういっそ今すぐ死んでしまいたかった。もうこの先、生きていたって何をしていたって空しくなるだけだ。どうでもいいことに力を使って、そうして命を削っていた。最初からそうだと知っていれば、こんな使い方しなかったのに、と。今更思っても仕方がないし、どうしようもないけれど。

 だから、高校生の私は決めたのだ。もうこの先、絶対に力を使うのをやめよう、と。普通の人間として生きて行こう、と。

 大学は私を誰も知らない場所に行って過ごした。その生活は、今まで生きてきた人生の中で一番楽しくて、幸せだった。自分に変な力があるのを忘れられた。友達もできたし、彼氏もできた。

 なのに、私はまた使ってしまったのだ。風邪をひいた時に訪れた病院で、一度だけでいいから雪を見たい、と泣いている小さな子どもを見てしまった。どうやらその子は、生まれた時から目が見えないそうだ。私は何を思ったのか、その子に近づき声をかけていた。

「お姉ちゃんが雪、見させてあげようか?」
「え? でも、僕、目が見えないから……」
「大丈夫だよ。目が見えなくても見える雪だから」

 自分でも何を言っているのだろうと思う。だけど、本当なのだ。この不思議な力は、どんなところでも、どんな人にでも雪を見させることができるのだ。私が願えば、そこには雪が降る。理由はわからない。どこまでも不思議な力だ。男の子は、不思議そうな顔をしている。私は、そんな男の子の頭を優しく撫でて、目を瞑った。

どうかこの子に雪を

 そう強く願った。どのくらい時間が経ったのだろうか。ふわり、と冷たいものが頬に触れた。雪が降ってきたのだ。私と男の子の二人だけの周りに。もちろん、周りにいる人には見えていない。

「雪、見えるでしょう?」
「うん……っ! これが冬になるとふるって言われている冷たくて、でもきれいなものなんだね。みんなが言っていたとおりだ!」

 男の子は、嬉しそうにそう言った。その笑顔を見て、私の心は揺れた。もう、絶対に力を使わない、と決めたはずなのに。だけどもし、この子のように雪を見たくても見られない人々が、この世界に存在するのなら、この力を使ってもいいかもしれない、と思ってしまったのだ。今まで良いことに力を使わなかった。この力を見て喜んでくれるものは、いなかった。

「ありがとう……」
「何で、お姉ちゃんがありがとうを言うの? ありがとうは僕のほうだよ!」

 その子の『ありがとう』が嬉しくて、暖かくて、命が尽きる残り一ヶ月前に、私は生きる理由を見つけてしまったのだ。あぁ、どうしてもっと早くに気がつかなかったのだろうか。

「あなたのおかげで私の心はあったかくなったの。だから、ありがとう」「おねえちゃんかなしいことがあったの?」
「うん、でももう大丈夫だよ」
「そっか! よかった。僕も今、とってもうれしいからほんとうにありがとう、おねえちゃん。あ、ママがきたみたいだからいくね! バイバイ!」

 その子は元気よく手を振って、母親の元へと走っていった。どうやら足音だけで、誰の足音なのかわかってしまうようだ。どこかが悪くなると、どこかひとつの力が強くなるというのを聞いたことがあるけれど、本当のことなのだなと知った。
 病院で出会った目の見えない男の子の『ありがとう』という嬉しそうな声のおかげで、私は目標を見つけた。

第二章 

 目標をみつけてからの日々は、この力から逃げていた大学生の頃よりもずっと充実していて、幸せで暖かい日々だった。誰かの幸せのために、この力を使う。それは、なんて素敵なのだろうか。
 余命一ヶ月を切ってから、ようやく生きた心地がしてくる、なんて不思議だ。私のこの力の研究をしている人にも協力をしてもらった。
 尾立湊先生といって、四十歳なのに実年齢よりも若く見えるイケメンの先生だ。きっと病院内でモテモテなんだろうな、と思っている。顔が良い上に性格も良くて、患者の話にしっかりと耳を傾けてくれる。こんなに素敵な人なのに、独身だというのが驚きだ。
 雪を見たい、雪に触れたい、と思っている人がいるところはないか、と聞いてみた。そうすると尾立先生は、必死に調べてくれた。なかなか、そんな特殊な環境にいる人は見つからなくて苦労をした。生きる理由を見つけたはいいが、簡単ではなかった。すぐに実行できるはずもなくて、結局私がこの力を人の幸せのために使えたのは、最初の目の見えない男の子と命尽きる残り二週間となった時に、出会えた男の子の二人だけとなってしまった。でも、それでもよかった。この力を見て笑顔になってくれた人がいた、その証拠がひとつでもあるのなら、それが私の生きた証だ。 
 その人の元へと向かう前に私は、たった一年だったけれど私に、普通の人としての幸せを与えてくれた彼氏にお礼を言って、本当のことを話して別れた。彼氏はよくわからない、という顔をしていたけれど怒ったり馬鹿にしてきたりはしなかった。ただ一言、頑張ってと言ってくれた。その言葉が嬉しくて、私はありがとうと言って、最後に彼氏とキスをした。
 大学時代に、初めて出来た友達にもすべてを話した。友達は、ぼろぼろと涙をこぼしてくれた。私を想って、涙を流してくれる人なんて今までいただろうか。四年間、ずっと私と一緒にいてくれた友達。優しくて、暖かくて、傍にいると安心する子。本当にありがとう。
 そして最後に、私が普通の人として過ごしてきた愛おしい街にさようならを伝えた。それから、もう一つ行かなくてはいけないところがあった。もうこの部屋には二度と戻らないだろう。私は最期の時を生まれ育ったこの街ではない、遠い、遠い街で過ごすと決めた。そこに、私の力を必要としている人がいる。それなら行かない理由がない。この街に良い思い出はあまりない。だけど、少し寂しい気持ちはある。今までたくさん大変な思いをしてきたであろう両親に、感謝を込めてありがとうを伝えた。両親はたくさん泣いてくれて最後にぎゅう、と身体を抱きしめてくれて笑って見送ってくれた。今まで、ずっと素直に言葉を伝えられずにいたけれど、最後にちゃんと笑いあえてよかった、と思いながら両親と生まれ育ったこの街に、手を振って電車に乗り込んだ。

 そうしてたどり着いたのは、海の上にぽつん、と浮かんでいる小さな、小さな島だった。ここまで来るのに、いったいどのくらい時間がかかったのだろうか。街を出た時は明るかったのに、もうすっかり暗くなってしまっていた。船から降りて、その地に足を踏み入れた。島を歩き始めたが、何もない道が広がっているだけで、本当にこんな場所にこの力を必要としてくれている人がいるのだろうか、と不安になった。だけど、尾立先生は確かにこの島だと言っていた。

「暑いなぁ……」
 
 私は少し立ち止まり、額から出る汗をぬぐった。それから渡されたメモをもう一度見直した。確かに島の名前は、ここであっている。他に何か言っていただろうか。
『その島に行けばわかる』としか言われなかったなぁ、と思い出してため息をついた。

「お嬢さん、ため息ついてどうしたんだい?」

 急に声をかけられ、私の肩はびくっと揺れた。振り向けばそこには、優しそうな雰囲気のおばあさんが立っていた。

「人を探しているのですが、どこに行けばいいのかわからなくて……」
「あぁ、もしかしてお嬢さんが雪くんの願いを叶えに来てくれた人かい?」「はい、花城香苗といいます」
「香苗ちゃん、よろしくお願いしますねぇ」
「こちらこそよろしくお願い致します」

 そんなありきたりな言葉だけでは、本当は足りないのだ。だって、ここが私の最期の場所になるのだから。この島に住む人たちにとっては、いい迷惑だろう。せめて私がこの島に来てくれてよかった、と思ってもらえるような存在になってからいなくなりたい。この島に私という存在を刻み込んで、愛してもらえたら幸せだ。

「それで、そのゆきさんという方はどちらにいらっしゃるのですか?」
「あぁ、あそこに白い建物があるだろう。あそこにいるよ。あの建物の最上階、そこが雪くんの住んでいる場所だよ」

 おばあさんが指差したところには、この島には似つかわしくない白い大きなコンクリートの建物があった。先ほどいたところからも見えただろうに、海にしか目がいっていなくて気がつかなかった。あそこに、私を必要としてくれている人がいる。そう思うと、早く会いたくて仕方がなかった。おばあさんにお礼を言い、少し早歩きで建物へと向かった。

 目的地に着くと【夢待合室】と書かれた看板が目に入った。この建物の詳細は、聞かされていなかった。病院でも老人ホームのような施設でもなさそうだ。よくわからないまま、建物の中へと入った。

「すみません、今日からこちらでお世話になります花城香苗といいます。こちらに来れば、わかると言われたのですが……」

カウンターにいた人にそう声をかけた。

「花城さんですね、遠いところまでどうもありがとうございます。どうぞこちらへ」

 すらっとした背の高い女性に招かれ、私は【会議室】と書かれた部屋へと入った。少し待っていてくださいと言われて、ようやく腰を落ち着かせることができた。少し経つと先ほどの女性が、冷たいお茶を持って入ってきた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
「さっそく本題に入りたいと思うのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
「私は、この施設で事務員をしております加賀谷といいます。花城さんのここでの生活を手伝っていくものですので、よく一緒に行動させてもらうと思います。よろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願い致します」

 なんだか自分が大層な人間になったような感覚に陥ってしまう。こんな丁寧な対応をされるのは、初めてで落ち着かない。

「まず、はじめにこちらの施設についてご説明致します。こちらは看板にも書いてあったとおり【夢待合室】という名前の施設です。病院ではないです。しかし、ここで暮らしている人は、皆どこかに【傷】を負った普通の人と同じ暮らしはできないものが、暮らしているところなのです。普通の人に、危害を加えられないように傷を負った者たちを守るところなのです。ここでなら彼らは、彼ららしく生きることができて、好きなように過ごせます。いつか彼らの【夢】が叶ってくれたらいい、それを手助けする、夢を待っている場所、だから【夢待合室】なのです」

 私はそれを聞いてなんて素敵なのだろう、と思った。そんな素敵なところがあったのなら私もここで暮らしたかった、なんて思った。だけど、それはもう叶わない。私は、ここに暮らす私を必用としてくれている人の願いを叶えてあげるために来たのだ。

「夢待合室の規則や島の地図などは、先ほどお渡ししたファイルの中に入っているので、後でご確認してください。では早速花城さんが、一緒に住む人がいるところへご案内しますね」

 着いてきてください、と加賀谷さんは言い立ち上がった。その後を私は、不安を抱きながら着いていく。目的地へとたどり着くまでの廊下には、綺麗な絵画や日本国内や世界各国の色んな街の写真が、たくさん飾られていた。オブジェのような物も置いてあった。

「綺麗、ですね」
「ありがとうございます。ここに住む人たちは皆この島から出られない者ばかりなのでせめて写真や絵画、オブジェで、色んな物に触れてもらいたいと思って集め始めたのですよ」

 何てことのないように加賀谷さんは言うけれど、この小さな島から出られない、というのはどれほど寂しく、辛いことなのだろうか。想像ができなかった。私だって普通の人ではないけれど、それなりに自由に普通に暮らせていたと思う。どうして私だけこんな辛い想いをしなくてはいけないのか、とずっと思っていたけれど私よりも辛い想いをしている人は、きっとこの島にたくさんいるのだ。

「こちらです」

 加賀谷さんが立ち止まったそこは夢待合室の最上階で一番端っこ、窓の外を見れば美しい海が広がっていた。トントンと軽くノックをする。それからバタバタと騒がしい音がして、勢いよくドアが開いた。

「はいは~い!」

 そう元気よく返事をして出てきたのは、同じ年くらいで、にこにこの笑顔を浮かべた男の子だった。

「おはようございます、雪さん。花城さんを連れてきました」
「おっはよう、かがやん! その人が花城さん? めっちゃ美人!」

 想像していたよりも何十倍もテンションが高い男の子に私は、すぐに言葉が出てこなかった。

「初めまして! 僕は月花雪って言うんだ。雪って呼んでね! 年は十九歳。好きなものは雪、好きな季節は冬で嫌いなものは熱いものかな。よろしくね!」
「は、初めまして。花城香苗といいます。好きなように呼んでくれてかまいません。二十四歳です」
「僕より年上じゃん! 堅苦しい話し方やめよ!」

 私は雪さんの対応に困り、ちらっと後ろで待機をしていた加賀谷さんを見た。
「後は、お好きなようにしてください。私は、深く口出しは致しませんので。それでは、失礼致しますね」
「かがやん、ありがとーまたね!」
「あ、ありがとうございました……」

 ドアが閉まり部屋には、二人だけとなってしまった。さて、どうしようか。先生から雪さんの詳細については聞かされていなかったけれど、簡単な資料や最初に出会ったおばあさんの口ぶり、加賀谷さんの丁寧な対応で勝手に雪さんという人は高貴な人なのかもしれない、と思っていたのだ。だけど、実際会ってみれば、元気が良い自分より年下の男の子だった。こんな元気な男の子がこの施設から、この島から出られない特殊な人だというのか。私は信じられなかった。

「かなちゃん、信じられないって顔してるね」
「か、かなちゃん?」
「好きなように呼んでいいって言ってから。僕、堅苦しいの嫌いなんだ。これから一緒に暮らすんだから仲良くしていこ!」

 そうだ。私は、これから最期の命尽きる瞬間まで、この人と一緒に過ごすのだ。最期の時をここで。それなら仲良く、楽しく、明るく過ごしたほうが絶対に良い。そうして最期に『あぁ、楽しい人生だったな』と思って、この世を去りたい。

「わかった。じゃあ、私も堅苦しくならないようにするね! 雪くん、これからよろしくね」
「うん、よろしく!」

 私たちは、握手を交わして笑いあった。雪くんの部屋は、広くて私にも一部屋与えられていた。キッチンやお風呂、トイレなどもしっかりとあった。寮みたいな感じなのかと思っていたけれど、一戸建ての家みたいで驚いた。

「何でもあるでしょー聞いたかもしれないけどここで暮らしている人たちは、皆ここから出られない事情があるから、色々と配慮してくれてるみたいだよ。おかげで全然飽きないし便利だよ。あ、キッチンあるからご飯作って!」
「私、料理そんなにうまくないよ」
「それでもいいから!」

 かつて、誰かのために料理を振舞ったことなんてあっただろうか。自分のために作るのだってほとんどなかったのに。だけど、雪くんが望むなら。

「いいよ。じゃあ、準備するから待ってて」
「僕も手伝うよ!」

 そう言って雪くんは二枚のエプロンを取り出して、料理本なども持ってきて二人で何を作るか考えた。その時間はなんだかとても楽しくて、普通の人になれたような気がした。こんな風に誰かと一緒に料理を作るなんて、今までなかったから不思議で暖かかった。どうやら雪くんは、普段から料理をするみたいで野菜を切ったりするのが、私よりも上手くて悔しかった。雪くんには、途中で手伝うのをやめてもらった。後は全部私一人でやって絶対においしいって言わせてやりたい、という思いが強まったのだ。料理をしながら雪くんについて考えていた。この数十分でずいぶんと打ち解けあえたと思う。まるで昔からの友人のように。それは雪くんがとても人懐っこくて、接しやすいから。こんなに素敵な人がここから出られない、なんて悔しい。

「できたよー」
「わー! 良い匂い。さ、早く食べよう食べよう!」

 雪くんはコップやお箸を用意してくれて、その机に私は手料理を並べていった。メインディッシュは肉じゃが、それからほうれん草のおひたしにお豆腐のお味噌汁。こんなにしっかりとした料理を作ったのは、二十四年間生きてきて初めてかもしれない。椅子に座って手を合わせて、いただきます、と挨拶をした。そんな普通のことが私にはとても尊いもののように思えた。この瞬間も後二週間しか迎えられないのだ。

「料理、どれもすっごくおいしいよ!」
「ありがとう。初めてこんなにしっかりとした料理作ったけど、誰かのために作るのって楽しいね」
「うん。誰かのために何かをするって、とっても素敵だよね」

 それは簡単なようでいて、とても難しいこと。普通の人だってなかなか上手く出来ないのに特殊な私たちがそうしたい、と思うのは、間違いなのかもしれない。だけど、目の前にいる雪くんは私を必用としてくれてここに呼んでくれた。

「ねぇ、雪くん。雪くんはどうして私を呼んでくれたの? 雪くんはどうしてここから出られないの?」

 たくさん作ったはずの料理があっという間になくなった頃、ずっと気になっていたことを聞いた。雪くんといると普通の人になれたような気になれるから、本当は聞きたくなかった。だけど私は、聞かなくてはいけないのだ。それが、ここに来た理由なのだから。

「うん、ちゃんと順を追って話すね。その前にお茶を淹れよう!」

 雪くんも話したくないのかな、と感じた。私だって自分が普通の人ではないことを誰かに話したい、と思わない。雪くんがまだ私の力を必用としてくれる瞬間ではない、というのならその時まで何も話してくれなくてもかまわない、とも思う。だけど、それではいけない気がした。それから、雪くんがお茶を淹れてくれて数分の沈黙後ぽつ、ぽつ、と話し始めた。

「僕はね……」

 そうして語られた言葉は、信じられないものばかりだった。雪くんがこの夢待相室から出られない理由、それは外の空気にあたると寿命が縮んでいってしまうから、だそうだ。雪くんは生まれも育ちもこの島なのに、この島の空気は雪くんの身体を悪くする。一歩も外に出られないのだと。夏の暑さ、潮風、海の匂い、すべてが駄目なのだという。この島ではない別の場所へ行こうにも、結局一度はこの島を歩かなくてはいけない。だから、出ることは不可能なのだ、と。

「自己紹介の時にも言ったけど、だから僕は熱いものが嫌いなんだ。皆は、ここから見える海が綺麗だというけど、僕には綺麗だなんて思えない。とっても怖いものに思えるんだ……」

 なんて、残酷なのだろうか。私の胸は、ぎゅうと苦しくなった。

「でも、夏が終われば……」
「終わらないよ」
「え?」
「終わらないんだ。この島は永遠に夏なんだよ。ありえないって思うかもしれないけどこの島に春秋冬はこない。ずっと、ずっと暑いままなんだよ」

ずっと、夏の島。

「だから、夏島なのね……」
「そう。いつから、どうしてそうなったのか誰がそんな名前をつけたのかは知らないけれど、僕が生まれて物心ついた時にはもうそうだった」

 雪くんは、じっと窓の外をにらみつけていた。雪くんの特異体質が生まれたのは、私とは違って生まれてからすぐだったという。病院から出ると、すぐに雪くんの額から変な汗が出ていたのだという。雪くんのお母さんは、怖くなってすぐに病院へと引き返した。それから先生に診てもらってもただの風邪だという判断しか出来なくて、ひとまず病院に預けることとなったそうだ。だけど、その先生はやはりただの風邪にしてはおかしい、と思い色んな文献をあたってみた。そうしたら【特異体質】という単語が引っかかったのだという。

「この国に生まれながらにして人とは違う異質な体質を持った稀な人を研究して、相談に乗ってくれている人がいる、と調べたらわかったんだって。その人はたぶんかなちゃんも知っている人」
「尾立湊先生……」
「そう、尾立先生。その人がいなければ僕はもうとっくに死んでいるし、たぶんかなちゃんも死んじゃってるよね。その人に出会わなければ、僕たちは自分のこの体質について知ることはなかった」

 その通りだ。何か変だな、と思いつつも何もわからないまま同じように過ごして、命を無駄にして、そうして何もしらないまま命尽きていたのだと思う。そうならなくて良かったと心の底から思っている。

「かなちゃんを紹介してくれたのも尾立先生なんだよ」
「尾立先生、なんて言っていたの?」
「誰かのために自分の力を使いたい、自分の力を必要としている人の役に立ちたいって子がいるんだけど、その子なら雪くんの願いを叶えてくれると思うよって言ってくれたよ」

 全身が熱くなるのを感じた。そう思って数年間生きていたけれど、いざ他人の言葉でその自分の決意を聞くと、なんて大それたことを言っているのだろう、と思う。だけど、雪くんと出会って私はまだ恵まれているのだ、と思えた。この永遠に夏の島から出られない人たちがいる。それに比べて私は、自分の意思で自分のしたいことをして残りの数年を生きられている。変な力だと、どうして自分だけがこんな力を持ってしまったのだ、と思いながらも誰かはこの力を必用としてくれている。それはとてもありがたい。雪くんのような人もたくさんこの世界にはいる。この特異体質は必ずしも何かの役に立つ力、というわけではない、と改めて知った。

「雪くんの願いは、何?」
「僕の願いは今度教えるよ。今はただ普通にかなちゃんと残りの二週間を過ごしたいんだ。それがひとまずの僕の願い、かな」
「残りの、二週間……?」

 それは、私の命の期限だ。だけど、それについてはまだ話していなかったと思う。なのに何故、その数字が出てきたのか。

「僕の命もかなちゃんと同じ残り二週間なんだ」

 私は何を言われたのか、すぐには理解が出来なかった。その後、何かを言及する前に雪くんは、今日は疲れたからもう寝よう、と言って寝る準備に入ってしまった。無理強いをするのもよくないと思い、私も寝る準備に取り掛かった。色んな情報が一気に入ってきて身体も脳も疲れきっていた。布団に入り目を瞑って、今日の出来事を思い返していた。まるで小説のような一般の人にはとても言えない、信じてもらえないであろう話。特異体質とその期限。私たちは、同じ状況にいた。疲れているはずなのにとても眠れそうにはなかった。

第三章

 次の日の朝、雪くんは普通におはよう、と挨拶をして朝食の準備に取り掛かっていたけれど、私はとても普通になんて出来なかった。昨日と同じように朝食を食べ終わって、お茶を飲みながらじっと雪くんの顔を見つめ、切り出した。

「雪くん、昨日最後に言っていた私と同じ命の期限が残り二週間ってどういうことなの?」
「……僕はね、生まれた時に一度外の空気に触れてしまったって言ったでしょ。その時点で僕はもう二十歳までは、生きられないって言われたんだって。僕は今、十九歳。二週間後は僕の二十歳の誕生日なんだよ」

どくん、どくん、と心臓が高鳴る。

「でもね、こうして中にいれば体調がおかしくはならないから本当に突然ぱったり命が尽きるらしいよ。それを知ったのは、二十歳の誕生日の一ヶ月前だった。何も思わなかったけど僕はただ一つ、どうしても触れたくて、見てみたいものがあったんだ。そして、かなちゃんが来た。そうしたらもうわかるよね?」
「雪……?」
「そう。生まれてからずっとこの夢待合室で生きてきて、永遠に夏の島から出られない僕は【雪】というものを知らない。テレビの中とかなら見たことはあるけど……。だから最期は、冷たい雪の降る空間で命を尽きたいなって思ってさ。だから、かなちゃんの力は今すぐ必要ってわけではないんだ」

 そう言って、私を見つめてくる雪くんの瞳は綺麗だった。

「かなちゃんの命の期限についても聞いてた。だから思ったんだよ。お互い特異体質を持っていて、二週間の命、最期くらい何も考えないでやりたいこと、好きなこと、やってみたかったこと、それを二人で出来たらいいなって。だから二週間前に呼んだんだ。ごめんね、僕の我侭につき合わせて」「謝る必要なんて何もないよ。良い案だと思う。二週間毎日お互いの夢を叶えていこう!そうしたらきっとあぁ、生まれてきて良かったなって、思えるはずだから。楽しく過ごそう!」

 最期の日まで、しんみりと過ごすなんて嫌だった。特異体質なんて、命の期限なんて忘れられるくらい楽しく笑顔で過ごしたい。そうして胸を張って私は生きたんだ、と思いたい。後悔を残したくはなかった。残り二週間、という時をかけがえのない時間にしたい。それを雪くんが与えてくれた。もし、雪くんが私を呼んでくれなければ、最期の時にだけ呼んでいたら、残り二週間をどう過ごしていたのだろうか。想像がつかなかった。

「ありがとう。それでね、こういうのがあったら便利かなって思って作っておいたんだ」

 そう言って雪くんが取り出してきたものは、一枚のカレンダーだった。だけどそのカレンダーは今月の最期二週間しか、描かれていないものだった。

「それは……?」
「このカレンダーの枠に最期の日までのお互いのやりたいこと、したいことを書いていくんだよ。そうしたら今日は何をするかってよくわかるでしょう?」

 楽しそうに雪くんは笑う。
 その笑顔は、自分たちが死へと向かっているとはまったく思えない笑顔だった。だから、私も笑った。負けないくらいの笑顔で。それはとっても素敵だね、と。そうして私たちは、交互に枠に願い事を書いていった。

 *十三日前
香苗:手料理をまた食べて欲しい 
雪:手を握って一緒に寝て欲しい

「それじゃあ、最期の日まで毎日料理作ってよ! もちろん僕も手伝うけどさ! そうしたらかなちゃんの願いは、最期の日までずっと叶うでしょ?」「飽きたりしない……?」
「飽きるなんてないよ。それに、もし僕が普通の人だったのなら、今もきっとお母さんの料理を食べているはずなんだから。それが飽きるってないでしょう?僕、かなちゃんの料理昨日初めて食べたけど大好きになっちゃったから。二週間しか食べられないってのが残念で仕方ないくらいだよ」

 雪くんの言葉はもっともだった。私だって、大学生になるまでずっと、母親の料理を食べて生きてきた。その味に飽きる、なんて思ったことは一度もない。それが普通で日常だったのだから。だけど、雪くんには、その普通の日常がなかった。それなら私が最期の日まで日常を与えよう。

「ありがとう。そうしたら私は、毎日雪くんの手を握って寝てあげるね。私も一人で眠るのは寂しいから」

 小さい時、雪くんは怖い夢を見て眠れなかった日も、誰かに傍にいて欲しいと思った夜も、そこに手を握って一緒に寝てくれる人は、いなかったのだろう。一人で泣いて、我慢して。

「二人で一緒に眠ったら良い夢が見られそうだよ」
「私もそう思うよ」

 それから昨日と同じように私たちは、一緒にキッチンに立って料理を作り始めた。今日は、リクエストを聞いてみた。そうしたら、ふわふわのオムライスが食べたい、と言われた。これはいきなり難易度が高いぞ、と焦った。ふわふわのオムライス、なんてあまり食べた記憶がない。だけど、街を歩いていた時よく目にした。そうして、ふと思い出したのだ。ずっと前、初めて元彼と一緒に食べに行った店で頼んだのはふわふわのオムライスだったなぁ、と。元彼との大切な思い出ではないのか、と思われるかもしれないけれど目まぐるしく過ぎていく人生の中で、ちゃんと覚えていられる思い出は限られている。普通の人と同じように生きていれば元彼と初めて行ったお店で食べた物は、きっとずっと一生忘れられないものになっていたのだろうけれど。私の記憶のほとんどは、この特異体質と命の期限で埋め尽くされてしまっているのだから仕方がない。
 だけど今、思い出してくれて助かったなと感謝した。あの時の味と見た目をなんとか思い出して、真似て作ってみた。雪くんには、ご飯を炒めるのをやってもらった。そうして出来上がったふわふわのオムライスを綺麗にお皿に盛り付けたら、お店の物ののように見えた。

「わー! おいしそう!」

 きらきらとした瞳で雪くんは、オムライスを見つめた。ダイニングにお皿を持っていっていただきます。何気ないこの日常のあいさつが私は好きだ。いただきます、ごちそうさま、おはよう、おやすみ、そんななんでもない当たり前の言葉が、すごく特別なようなものに思えて。その言葉を言う瞬間に、とても幸せを感じていた。

「すっごくふわふわだよ! おいしい! 前にテレビで見てずっと食べてみたかったんだー」
「ありがとう……」

 私も口に運んでみた。確かにそれはおいしくて、ちょっと懐かしい味がして泣きそうになってしまった。寝る準備を済ませたら私たちは、一緒の布団に入って手を繋いだ。雪くんも私も小さいと言える身体ではないから、少し大きめのベッドとはいえ狭かった。だけど嫌な感じはしない。とても暖かくて、安心するぬくもり。

「かなちゃんあったかい」
「雪くんもあったかいよ」
「ずっと、ずっと、こうして一緒に寝てくれる人がいたらなって思っていたんだ」

 普通に生きている人だって寂しくて、辛くて、一人の夜が嫌だと思う日はあるだろう。そんな中、雪くんは自分の特異体質と戦いながら、日々を過ごしてきっと毎日辛かったに違いない。普段は明るいから、周りは気がつかないかもしれないけれど。それなら私がこれからは気がついてあげよう。お願いをされなくても、いつだってこうして手を繋げるように。

「本当にありがとう」
「ううん。私の方こそありがとう、ね」

きっと今夜は、良い夢が見られるだろう。

*十二日前
香苗:雪くんの夢を知りたい 
雪:かなちゃんの夢を知りたい

「これってもうやりたいこと、やってみたかったことと関係ないんじゃないの?」
「そうかもだけどね、これは最後には僕のやってみたかったことに繋がるんだ。これからの予定を見てみて」

 雪くんにそう言われて私は、今後のカレンダーに書かれた予定をじっと見つめた。
 互いの夢、自分がどうしたいのか、どうして欲しいのか、生まれ育った街、焦がれる街について、恋の話、残したい想い、そうして、最後は一緒に何かを作りたい、そんなことが書かれていた。

「僕さ、こんな身体だからもちろん学校なんてところには、通ったことがないし【青春】って言葉もよく知らない。だからこれから最後の日まで、一緒に学校生活を送っているような、そんな雰囲気になれたらいいなって。友達同士が話す会話のような、願いを書いてみたんだ。後、一緒に何かを作りたいって言うのも文化祭って言うんでしょ。そういうのやってみたかったから……」

 あぁ、そうか。雪くんは、本当に何も知らないのか、と思い知らされた。学校になんて良い思い出はあまりないけれど、それでも、学校に通えていたというのは、幸せなことだったのだ。友達も少ないけどいたし、彼氏だって出来た。だけど、同じようで違う境遇の雪くんは、ずっとここにいたのだ。

「二人で青春、しよう! 私も雪くんにつられて願い書いちゃったし書いたからには実行させないとね。それで、私たちの想いたくさんの人に知ってもらおう」
「うん。ありがとう、かなちゃん」

 そう言って笑った雪くんの笑顔はとても、暖かくて後二週間もしないうちにこの笑顔が消えてしまう、というのが信じられなかった。

*十一日前
香苗:小説家になりたかった 
雪:アイドルになりたかった

 次の日、私たちは自分の夢を打ち明けた。一日明けたのには理由があった。お互い今まで自分の夢について誰かに打ち明ける、なんてしたことがなかったから整理が必要だったのだ。自分の夢と向き合ってみて思った。もし、こんな体質を持たなかったら今頃私は何をしていたのだろう、と。私の夢は私の力で誰かを喜ばせることだけだと思っていた。だけど、もう一つあったなと思い出したのだ。忘れていたわけではない。忘れようと頑張っていたけれど、やはり忘れられなかったようだ。

「かなちゃん小説書けるの⁉」
「そんな大したこと書けないけどたまに書いてたよ」
「わー読んでみたいな」
「そしたら私も雪くんの歌聞いてみたい」

 そこで、はっと気がついたのだ。私の文章と雪くんの歌。昨日、言っていた文化祭みたいなことがしたいという言葉。

「ねぇ、もしよかったら合作してみない?」
「合作?」
「そう。私が歌詞を考えるからそれを歌って欲しい。それで録音しておくの。雪くんの声をこの世界に残しておきたい」
「いいね! そしたら僕からもお願いをしたいんだけどいいかな?」
「何?」
「その歌に合う小説を書いて欲しい。かなちゃんが書いた小説が映画とかドラマとかになった時の主題歌をアイドルになった僕が歌っているっていう設定! どうかな?」
「とても素敵だと思う!」

 私たちはそんな夢物語を語った。そんな夢は叶わないってわかっている。たとえ、もし私が書いた小説が映像化され、その時の主題歌を雪くんが歌ってくれたとしてもそれをこの目で見ることは絶対に出来ない。すべてが本当に夢。だけど、少しの間くらい、そんな大きな夢を見たっていいではないか。あと数日の命なのだ。私たちは、さっそくその日の夜からどういう話にしようか、歌にしようか、と話し合いを始めた。

*十日前
香苗:自分たちのような人がいることを知って欲しい 
雪:自分が生きた証を残したい

 私たちが、もっとも願っていること。この世の中に、いったいどれくらい私たちのような人について知ってくれて、理解してくれている人がいるのだろうか。私たちみたいな人は誰かに生きていていいよ、と言ってもらえないと生きてはいけないのだ。少しでも否定されてしまえばあぁ、やはり自分はおかしいのだ。生きていても意味がないのだ、と思ってしまう。だけど、どうせ普通の人間と違って死が、いつくるのか早い段階で決まってしまっている運命。その短い生涯を楽しく、精一杯生きたいではないか。
 そのためには、他人からの肯定の言葉が必要なのだ。

「私は、自分たちを主人公にしたお話を書こうかな」
「僕も同じ」
「決まりだね」
「うん!」

 私たちは、さっそく作業に取り掛かった。まずは作詞から。それを踏まえてお話を書き始めたほうがやりやすいと思ったのだ。しかし、今まで書いてみたいなとは思っていたけど、実際に書き始めるのは今回が初めてでなかなか難しい。だけど、二人でアイデアを出し合って進めていくのは本当に楽しい。途中で休憩を挟みながら今日は、なんとなくの構成をまとめるところまではできた。

 そうして、また一日が終わってしまった。刻一刻と最期の日は近づいてきている……

*九日前
香苗:雪くんの憧れる街の話を聞きたい 
雪:かなちゃんの生まれ育った街のことを聞きたい

「僕の憧れる街かぁ。やっぱり四季がある場所かな」

 雪くんの住まうこの島は永遠に夏の島。一年中ひまわりが咲いていて暑い。雪はもちろん、桜や紫陽花、紅葉など季節を代表とするような花もテレビとかでしか見たことがないようだ。私は、今まで日本にそんな場所があるなんて思いもしなかった。日本は四季があって、それにあわせて花が咲いて、散って、夏は暑くて、冬は寒くて、夏は海に入って、冬は雪遊びをして、それが当たり前だと思っていた。そこが日本の誇れるところだって。なのに、この島にはそれがない。

「大昔に日本人がアメリカに桜を送って桜が見れるっての知ってさ、何で? って思ったんだよね。アメリカに送る前に、同じ日本であるこの島に送ってよって。でも、仕方ないんだよね。この島ってほとんど知られていないから……」
「そう、なんだね……。私も、ここに来るまでこの島について知らなかった。だけど、この島に来てとても綺麗なところだなって思ったよ。今までこんな綺麗な景色見たことなかったから」
「かなちゃんの住んでいた街には海なかったの?」
「なかったよ。見渡すばかり高いビルがあって、人がたくさんいて常にうるさい街だった。周りなんて気にする人はいなくて、みんな自分のことで精一杯。何でそんなに急いでいるんだろうって感じの人ばかりが街を歩いたり走ったりしていたよ」

 そんな街が私は嫌いだった。理解できなかった。他人にぶつかっても謝りもせず、ひたすら前を急ぐ。満員電車から降りる時、すみませんと声をかけているのにどかない人たち。通行の邪魔になるようなところで、広がってしゃべっている人たち。そんな人たちばかりで、絶対こんなところで死にたくないって思っていたのだ。

「大嫌いな街から出たくて、そして夢をみつけて、私の夢を叶えてくれる人がどこか遠い静かな街にいてくれたらいいなって思って、尾立先生と協力してそうして雪くんとこの島と巡り逢えたんだ」
「そっかぁ。かなちゃんも自分が生まれ育った街が嫌いだったんだね。僕と同じだ。安心した……」

 そう言って雪くんは笑った。そんなところで共感を得るのは、おかしいのかもしれないけれど私も嬉しかった。今まで会う人みんな、自分の生まれ育った街が好きだという人ばかりだったから。私はおかしいのだろうか、とずっと悩んでいたから。

「私もすごく安心した……それからね、雪くんはこの島が嫌いかもしれないけれど私は好きだよ」
「僕も、かなちゃんと巡り会えたから少しは好きになれた、かな」

 私たちは二人、何気なく窓の外を見た。そこにはずっと、ずっと、遠くまで広がる青い空があって、何も知らないその青い空が少し憎く思った。こうして穏やかな時間を過ごしている今も少しずつ、少しずつ、私たちの命は終わりへと近づいているのだ。

*八日前
香苗:雪くんの好きな人、もしくは好きだった人の話を聞きたい 
雪:かなちゃんと付き合っていた人の話を聞きたい

「私と付き合っていた人の話か……。とても素敵な人だったよ。私がやりたいと思っていること、信じていることを残りの人生すべてをかけて全力でやってきたらいいって言ってくれたんだ。迷う必要は無いって。自分の信じた道を突き進んでいきなって。そうして最期に笑えたなら、どんな人よりも人生勝ち組だろうって彼は言ってた」

 その言葉が何よりも力強かった。こんな身体に生まれてしまった私は、この先の人生で何をしたってもう普通の人の人生に敵いはしないって思っていたから。だけど、彼は身体なんて関係ないって言ってくれた。それが本当に嬉しかったのだ。

「それはとっても素敵だね。僕も今、すごく力もらったよ。残りの人生もっともっと楽しんでやろうって思いが湧き出てるよ! 僕にもね、そんな生きる力をくれた人がいたんだ。かなちゃんも知っている人だよ」
「その人が雪くんの好きな人?」
「うん。この夢待合室を作ってくれたかがやん」

 雪くんの言うかがやん、本名加賀谷望海さん。四十歳の独身でかっこいい女性。

「好きな人って言っても恋愛としての好きではないよ? そうだなぁ、僕にとったら生んでくれた本当のお母さんよりもずっと、お母さんだと思える人で尊敬し憧れである大人って感じかな……」

 夢待合室に来て最初に出会い、それから雪くんのことを今までずっと育ててくれた人。無愛想だけれど、いつも暖かかったと笑った。

「僕ね、一度生きる意味を見失って自殺しようとしたことがあったんだ。その時に止めてくれたのもかがやんだった。これから最期の日まで、笑って生きていれば絶対に素敵なことが起こるはずだからって。私が貴方に素敵なことを起こしてみせるからってそう言って、生きてって泣いてくれたんだ。その素敵なことって、今思えばかなちゃんとの出会いだったのかもしれないね」

 そんな雪くんの言葉に、私の瞳からは涙が零れ落ちた。そして同時に私たちをめぐり合わせてくれた加賀谷さんと尾立先生にありがとう、を何度も心の中で伝えた。

*七日前

 昨日の話も踏まえて私たちは、お互いにとって大切な人たちに手紙を書くことにした。手紙を書きながら私たちは思い出話を語り合い、お互いの知らない二人の新しい一面を知れたりして、とても素敵な時間を過ごした。

*六日前

「歌詞が完成したから録音しておこう。作曲が出来ないのが本当に申し訳ないけど……」
「ううん! 何回か読んでなんとなく浮かんだメロディーをアカペラで歌うよ。僕昔からなんとなく浮かんだ言葉で、適当に歌うの好きだったから、ちゃんとした歌詞があるだけですっごく嬉しい!」

 雪くんは、きらきらとした瞳でそう笑った。一時間読みこむ時間が欲しい、と言われたので了承した。その間に、小説のラストスパートを書き上げた。
 そして一時間後、初めて私は雪くんの歌声を聞いた。とても透き通っていて、綺麗で惚れ惚れしてしまうそんな歌声だった。自分の書いた歌詞を歌ってくれている人がいる。それがとても嬉しくて、幸せだった。それから録音したCDを綺麗に包んで引き出しの中にしまっておいた。小説も何とか完成して、茶封筒に入れて一緒にしまった。

*五日前

 生きている内に完成させておきたかったものが何とか完成した私たちは、最期の願いを告げた。まだ時間はある。だけど、この願いを叶えてしまったら、何が起きるかはわからない。だけど、それでも、最期にどうしても叶えたいものがあった。

「嫌だったら嫌だって言っていいからね」
「嫌なんて言わないよ」
「……私、この島を雪くんと一緒に歩いてみたい。私たちを巡り合わせてくれたこの島を一緒に歩きたいんだ」

 それは雪くんの命を縮めると、許されないとわかってはいる。

「僕も同じこと思ってたよ。大嫌いだったこの島を、かなちゃんと出会って好きになれた。最期に好きになれたこの島を、二人で一緒に歩きたい」

 行こう、と雪くんは私に手を差し伸べた。差し伸べられたその手を握ってしまった。それから外へと出た。久々の外に、雪くんは嬉しそうに楽しそうに笑ってくれていた。私も笑っていた。一人でこの島に来たあの日、不安でいっぱいだった。だけど今は隣に雪くんが居て、一緒に笑っている。たった数日で、こんなにも周りの空気が変わるなんて思いもしなかった。偶然なのか気を使ってくれたのかもともとなのか、その日私と雪くん以外島内を歩いている人はいなくて、二人きりの世界だった。最初で最後の二人きりの外の世界。そこは暑くて、だけど時々吹く潮風が気持ち良くて、海の匂いが心地よい素敵な空間だった。

 その日の夜、必然的に雪くんの体調は急変した。私たちの行いに加賀谷さんは何も言はなかった。雪くんも私を責めたりしなかった。その日の夜からベッドから起き上がることができなくなり二人で料理をすることは、もう二度となくなってしまった。それは私が招いてしまった結果だから、落ち込んだりしてはいけない。

「そろそろ雪が見たい頃じゃない?」
「うん準備ができたならお願い、したいな」
「わかった。そしたら今晩、最期の願い叶えるね」

 約二週間前に私たちは出会って、お互いの残りの人生今までやりたくてもできなかったことをしていこう、という雪くんの案に乗って毎日を普通の学生のように過ごしてきた。文化祭のように一緒に協力をして一つのものを作って、夢の話をして過ごした街の話をして好きな人の話をして……そんな普通の人のように過ごしてきた。だけど、そんな夢のような時間ともそろそろお別れをしなくてはいけない。今晩、私の力を必要としてくれている人のために自分の命を使う。雪くんだって、私の願いを叶えてくれた。
 きっと今晩力を使えば、もう二度と歩くことはできなくなるだろう。だから、力を使う前に引き出しの中にしまっておいたCDと茶封筒と大切な人たちに書いた手紙を、綺麗において加賀谷さんにメッセージを残した。

『ここに置いてあるものを私たちが死んだ後、届けるべき場所へと届けてください。お世話になりました。お願いします』と。

「準備はこれで大丈夫かな……」

 最後に、二人で過ごしたこの部屋を隅々まで見て回った。暖かい笑顔で出迎えてくれた玄関、お揃いの歯磨きセットが並んでいる脱衣所、昨日まで一緒に並んで、料理をしていたキッチン。お互いの夢や色んなことについて、たくさん語り合ったダイニングにある机。昨日以外ここに来てから、この部屋を出ることはなかった。それでも飽きるなんて全然なくて。たくさんの思い出ができてしまった。残りの二週間が、こんなにも楽しい時間になるなんて思いもしなかった。すべては雪くんのおかげ。

「ありがとう、雪くん……」
「か、なちゃん……? もう、大丈夫なの?」
「うん。後は、雪くんの願いを叶えるだけ」

 そのために私は、この島に来た。この力を必要としてくれている人がいると知った時、とても嬉しかった。あぁ、今まで生きていて良かったと心から思った。雪くんの願いを叶えるために私はここに来たのに、今までずっと私の方が幸せな想いをたくさんしてきてしまった。やりたかったことが、たくさんできた。知らなかった想いをたくさん知られた。

「ねぇ、雪くん。私たちの関係性ってなんていうんだろうね?」

 最後にずっと、気になっていたことを聞いてみた。お互いに恋愛感情を持っているわけではない。だからといって、友情という言葉で表すこともできない。家族、というのも違う。だけど、本当の家族よりもずっと家族で、大学の友人や彼氏よりも友人で、恋人のように短い日々を過ごして笑って、お互いを知っていった。かけがえのない時間を過ごしていった。

「本当は気が付いているでしょう? 僕たちの関係性」
「……少し、ね。だけど、言葉にするのはちょっと恥ずかしいかな」
「最期なんだよ。言いたいことは言っちゃおうよ。じゃあ、せーので言おうか」

 もう、しゃべるのだって辛いだろうに、無邪気にそう笑った。だから私も笑って言った。

「「運命共同体」」

 そう、私たちは同じ運命を共にして全力で今日までずっと生きてきた。普通の人と違う体質を持って生まれてしまったばかりに、普通の人生を送れなかった。だけど、それよりもずっと大切なものを手に入れた。たったの二週間。その時間は、きっとどんな時間よりも勝る素晴らしい時だった、と胸を張って言えるだろう。

「少し早いけど今日しかいえないから伝えるね。雪くん、二十歳のお誕生日おめでとう。生まれてきてくれて、出会ってくれて本当に、本当にありがとう」

 私は、ぽろぽろと涙を零しながらすべての力を使って願った……。


 どうか、雪くんに真っ白で美しい雪を見させてあげて

 ふわり、と掌に冷たいものが落ちてきた。白い、小さな粒。それは私の最後の力。今まで降らせてきたどんな雪よりもずっと美しい雪。

「ゆき、くん、みえてる……?」

 さっきまで何ともなかった身体から、一気に力がなくなっていった。期限まで時間はあるのに。これが確定はできない、ということなのか。力を使ったとたん、寿命は急激に縮んでしまう。私の命は、もうそんな小さなものになってしまっていた。

「みえてるよ、かなちゃん……ゆき、とってもきれいだしつめたくてきもちがいいね」

 私は、そう告げる雪くんの元へと倒れこんだ。動きにくい手で何とかその手を見つけ出し、毎晩していたようにそっと握りしめた。雪くんも握り返してくれた。
 その手は、とても暖かくてこれから死に逝く人の手のぬくもりとは思えなかった。

「ぼく、いまはじめてじぶんのなまえをすきに、なれたよ……。こんな、にも、きれいなものとおなじなまえだったなんて、とてもほこりに、おもうよ……」

 私にはもう、何かを伝える力は残されていなかった。だけど、まだ雪くんの声はよく聞こえる。

「ほんとうに、ありがとうね。かなちゃんにであえたことで、ぼくはいきていてよかったってこころからおもえた、よ……」

 ぽたり、と冷たいものが頬にあたる。それがまだ降り続いている雪なのか、涙なのか、わからない。両方なのかもしれない。冷たくて気持ちがいいなぁ、なんて思いながらうっすらと目を開いた。雪くんの愛らしい笑顔が見えた。

「ゆ、きくん、とあえて、よかった……」
『ありがとう』

 最期に聞こえたのは、アイドルになることを夢見た少年の美しい感謝の言葉の声だった。

 エピローグ

 その日の夜、加賀谷から尾立に久しぶりに連絡が入った。それは、とても、悲しい知らせだった。

「そんなに悲しまないであげてください。二人とも穏やかな表情で眠っていましたよ。明日になればまた起きてくれるのではないかって、思うくらい穏やかな……」
「そういう加賀谷先生だって泣いているじゃないですか……っ」
「泣かずにはいられませんよ。愛おしい子たちでしたから。早く会いに来てあげてください。先生に見せたいものもありますので」

その言葉を聞きながら、尾立は家を出ていた。
久しぶりに降り立った夏島は、とても暑かった。だけど、仄かに雪の香りがした。それはきっと彼女の力の残り。誰かのために自分の力を使いたい、と願っていた彼女は、ようやくその夢を叶えられたのだ。良かった、と心の底から思った。
 尾立は、初めて二人が過ごした部屋を訪れた。加賀谷は、二人が過ごしていた頃のままにしていると言っていた。

「そこのベッドで二人は、最期を共に迎えていました。雪くんの上に倒れこむようにして香苗さんが横たわっていて、仲良く手を握って眠っていました」
「……二人を生かせなかったのは悔しいが、穏やかな表情で逝ってくれたのなら良かった。少し、救われたよ」

 尾立の夢は、二人のような特異体質を持って生まれてしまった人でも、命に関わらないような方法を見つけること。大学生の頃から研究を進めてきている。後、もう少しなのだ。

「そこの机を見ていただけますか」

 加賀谷にそう言われて、ベッドから目を移した。そこには、尾立と加賀谷宛ての手紙、一枚のCD、分厚い茶封筒、何枚かの封筒が置かれていた。その上に、そっと置かれたメッセージカード。

『ここに置いてあるものを私たちが死んだ後、届けるべき場所へと届けてください。お世話になりました。お願いします』

 それは香苗の文字だった。

「尾立先生、二人の想いをどうかこの先伝えていってあげてください」

 普段は冷静沈着な加賀谷が、涙をぼろぼろと零しながらそう言った。尾立はそっと茶封筒を開いた。そこに入っていたのは、三十枚くらいの原稿用紙に書かれた小説だった。メッセージカードの文字と同じ。香苗が書いたものだった。CDを手に取ってみると裏にタイトルと名前が書かれていた。

『箱庭の青春 歌・月花雪 作詞・花城香苗』

 それは、香苗の書いた小説のタイトルと同じだった。

「二人が残してくれた軌跡だ。帰ってしっかり伝えていくよ」
「ありがとう、ございます……っ」

 それから、東京に戻った尾立は香苗の生まれ育った街に行き、香苗の大切な人たちに会っていった。みんな涙を零してありがとう、と微笑んでくれた。
 この世にはきっと、まだまだ二人のような特異体質を持ち悩み、悲しみ、迷って生きている人たちがたくさんいるだろう。加賀谷が作ってくれた夢待合室に行けば、安心して過ごすことができる。だけど普通の人と同じように働いて、恋をして子どもを生んで、育てて、そんな普通の幸せを夢みたっていいではないか。堂々と道を歩いて、何かを諦めるなんてないように。大切な人を、時間を失わなくてもいいように。そんな世界にできたのなら……。

「ありがとう、雪、香苗、私は二人がいなくなってしまったこの世界で、お前たちの想いを伝えながら、この先もずっと生きていくよ。どうか、空の上では穏やかに暮らしてくれ。そしていつか生まれ変わったらまた二人に出会いたい……」

 空を見ながら尾立はそう願った。

 

 生まれてきたことを後悔しながら、歩いていた男がいた。今晩死んでしまおうか。そんなことを思うくらい追いつめられていた。とぼとぼと歩く男の耳に、ふと美しい歌声が響いてきた。アカペラの歌声だった。夢を見ることを忘れた少年が、自分の願いを叶えてくれる人と出会い、その人と手を取り合って生きて行こう、と歌っている。アカペラの美しい声が刺さる。そしてほぼ同時に、ふと目に入った看板に貼ってある一冊の本の宣伝のポスター。

【あるがままあなたの人生を生きて! 諦めないで! あなたを必要としてくれている人は必ずいるから】

 その言葉と歌声に、自然ともう少し生きてみようかな、と男は久しぶりに空を見上げた。

 見上げた空は、眩しいくらい青かった。

 

 

 

#創作大賞2023 #ファンタジー小説部門

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