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怪獣

自分はある程度、自分のことを抱き締めて生きていると思う。ほんの鬱であれば私は今苦しいんだねと頭を撫でてあげられるし、そんな自分も自分の中に生きていることを許容している。そんなあんたも可愛いよと声を掛けてあげられる。大丈夫大丈夫大丈夫と声をかけられるうちはまだまだ自分はやっていける、何だって出来るしきっと生きていけると、死にながら生きるみたいな生活でも大丈夫だと思える。

死にたがりだった学部の頃は鬱を鬱として認識できているようで出来なかったから、海底に沈んだ自分の視界をそれが当たり前かのように捉えていて、苦しいも助けても言うなんて選択肢はなく、ただ将来どうにもならなかったら卒業と共に死んで楽しかった人生として無理やり意味づけてやろうと思っていた。学位を授与された瞬間の「ここまで生きながらえてしまった」が全てなのだけれど、この日でさえ今日が人生で1番綺麗になれたのだからこのまま死んでしまおうと本気で悩んで夜の飲み会に遅刻した。それでも今は生きてしまっているし、私に調子が良い日なんてないんだというある種の諦観を抱えて、毎日を生きながらえている。

そんな私でもどうにもならない瞬間は突然にやってくる。それは授業中、空きコマ、登校中や下校中、お風呂の前など場所も時間も関係なくふと私の前に現れては、私に大きな黒い布を被せてくる。体の中の私が小さく小さく蹲らないといけないような圧をかけてくる。その瞬間だけはどう頑張っても抗えない鬱と諦め、周囲を見渡せない視野の狭さ、息の出来ない圧迫感、お前は死ぬしか救いがないという強迫観念、その中での周囲とのやりとりなんて怖いものがなくてそれを私は無敵状態と呼ぶけれど、先輩が怖いとか発表が不安だとか何もなく、ただ自分はどうにもならないという思考だけが蔓延っているので、ただ静かに大人しく嵐が過ぎるのを待つしか、それに対処する方法なんてない、と今のところは思っている。この瞬間は鬱でもなんでもなくただの視野狭窄で、自分ではコントロール出来ない何かによって引き起こされているから周囲にはごめんなさいと言うしかなく。ほぼ躁的なテンションで無敵だと思っている時もあるので、全ての自称無敵がこれとは限らないですけどね。

わたしは大体の感情を飼い慣らしているけれど、衝動性と恐怖だけはまだまだどうにもならない。人の怒りに触れることへの恐怖、死への衝動性、出てきてしまったらまだ何も手をかけられないから人に対して死なない約束をすることも消えない約束をすることも怖いし約束したところで100%守れるかなんて自信がない。どんなに大事な人と約束をしても衝動的に死ぬことは可能性としてあるだろうし、ただそれを気にかけてくれる人がいる限り、何かしらの抑制にはなっている。現にあと2年は死なないと思う。なんとなく。学部まではなんとなく明日死んでいるかもなと思うことがあったけれど、院進したらそんなの思わなくなった。いつも仲良くしてくれる人、特別だと大事だと真っ直ぐに言ってくれる人、とてもありがとうの気持ちです。私は死にません。おまえたちがいるので。

追記
上に書いたみたいな視野狭窄の時間も、自分と向き合う時間としてとても大事だと思ってますヨ  狭窄中(?)は思えないけれど狭窄の外にいる時間はその時間すらも抱きしめています。大丈夫だよ

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