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1月5日

仕事始めの今日、早朝からバルサの試合があり、予想どおり死ぬ思いを味わった。かろうじてラ・リーガ覇者に返り咲いた昨季と比較すると、今季のバルサには情熱が感じられない。今朝の試合も負けを覚悟していたが、2-1でなんとか逆転勝ちを収め、EL圏落ちを(さしあたっては)まぬがれた。一方、レアル・マドリードはと言うと、勝ち点を取りこぼすことなどもちろんなく、首位に鎮座している。
 そのマドリードの心臓とも呼ばれるトニ・クロースの、昨日は誕生日だったのだが、彼が生まれるまさに10年前の1980年1月5日、後年、ドイツ・サッカー史に「悲運の天才」として名を残す選手が生を享けた。セバスティアン・ダイスラー、1998年フランス・ワールドカップと前後してドイツ・サッカーの表舞台に登場した選手だ。1990年イタリア・ワールドカップでの優勝以降、EURO1996は例外として、不振に喘ぎ続けてきたドイツ、若い才能の枯渇に悩まされていたドイツにとって、「ドイツには珍しいファンタジスタ」であると賞賛されたダイスラーは、ドイツ国民が待ち焦がれた救世主となるはずだった。
 しかしながら、サッカー選手としての軌跡はクロースのそれとは対照的だ。活躍を望まれ、期待を寄せられながらも、度重なる負傷のため、満足にプレイし続けることができなかったのだ。「無事之名馬」という格言のとおり、プロである以上、第一線でプレイを続けられることは大前提だ。ダイスラーはそれができなかった。好きで怪我をしていたわけではないのだから、こう書くのは無慈悲にすぎるかもしれないが、厳然たる事実である。「ドイツ真性の10番」または「ドイツの恋人」とまで評されたことのあるダイスラーだが、彼はなに一つ成し遂げることのないまま、表舞台から姿を消した。
 ボルシア・メンヒェングラードバッハからヘルタ・ベルリンへ、さらには名門バイエルン・ミュンヘンに移籍しているが、この移籍は大失敗だった。当時、ダイスラーとともにドイツ・サッカーの新星と目されていたセバスティアン・ケールを見るといい。才能があると見るや容赦なく引き抜きを行うバイエルンは、ケールの獲得をも望んでいたのだが、ケールは土壇場でバイエルンの誘いを蹴り、フライブルクからボルシア・ドルトムントに移籍している。はたして、この判断は吉と出た。スーパースターとまではいかなかったかもしれないが、ケールはドルトムントでキャリアをまっとうすることができたからだ。同い年ではあったものの、ケールの方がメンタル的に成熟していたのか、自身の立ち位置を冷静に分析していたのかもしれない。名門への憧れがなかったわけではないだろうが、注目の度合いやプレッシャーを思うと、移籍は時期尚早であると考えたのかもしれなかった。
 実際、ダイスラーは肉体だけではなくメンタルをも崩すこととなる。負傷が多く、満足にプレイできないストレスもあっただろうが、プライベートでの諸問題も加わり、彼はうつ病を発症してしまったのだ。その後、2005年のコンフェデレーション・カップでは、再び10番を背に復活の狼煙をあげたかに見えたものの、自国開催の2006年ワールドカップ直前に再び負傷してしまい、追い討ちをかけるようにうつ病が再発。2007年1月、27歳の若さで引退を表明した。「自分の可能性」に対する未練を断ち切るタイミングであると、そう思ったのかもしれないが、寂しすぎる幕引きだった。
「もし〜だったなら」が無意味であることは百も承知だが、「もし」ダイスラーにクロースのような心身の強靭さがあったなら、ドイツのサッカーはどうなっていただろうかと、ふと思うことがある。ダイスラーの現在については知る由もないが、せめて平安のなかにあってほしい、そう願うばかりだ。


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