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ならぬことは、

 日々の疲れに身を任せ、ため息混じりに付けたテレビの中で、おもむろに開いたSNSの中で、昼夜繰り広げられるのはいつだって不毛な議論である。
 いや、不毛な「議論」であるならまだマシだ。私が目にする画面上で繰り広げられるのは、いつだって、クローズド・クエスチョンに対する言いがかりだから辟易する。
 
 イエスかノーかで答えることができるモノ、それはこの世の道理で規則なので、福島県人、それも会津地方の出身者(と言えるほど尊い出身地ではないが)に根深い言葉で言えば「ならぬものはならぬもの」です。
 どうしたって人道から外れる事は、ダメなものはダメなのです。本来、そこに「理由」をつける事がナンセンスなのです。
 
 不毛な言いがかりは、イエスかノーで答えられる事自体に納得をしていないような……いや、用意されいる答えに満足がいかないから、最もらしく聞こえそうな単語を羅列して防衛線を貼った上で、しょうもない思いを崇高な言葉に変換して吐き出して、それを正当化しようとする。

 それは単なる「言い訳」に過ぎない。
 それをそう感じるのは、自分自身がそうしてきているからだ。

 「風俗利用」というストレス発散法を覚えて久しいような気がするのだが、風俗を利用する度に「いつまで続けていられるだろう」という虚しさに駆られるし、利用していること自体への焦燥感が募ってゆく。
 風俗がビジネスとして成り立つ以上、その利用は違法じゃないけれど、「一般的な倫理観」を問われればその行為は如何なものか。だから、利用するに当たって最もらしく聞こえそうな単語を並べて、いやらしい感情を正当化して、「仕方ない」と言い聞かせ「ストレス発散だから」と風俗を使う。

 享受できる快楽の、刹那的な幸福。
 私という肉塊に触れる手の、情のない感触の確かな温もり。
 堕落していく心地よさ。
 「受け入れるから、受け止めて欲しい」

 そんな風に風俗を利用しているから、丁重にしてくれるキャストに対して不埒な感情を持ちわせてしまうこともある。
 好きだ、と言葉にするのは容易いが、その好意に名前はない。
 
 ただただ愛おしく、とても汚らわしい悪循環である。

 利用に際して夫へつき続けているワンパターン化されたウソは、いつまで信じてもらえるのだろうか。あるいは、それは最初から信用されていないのかもしれない。

 「いつまで続けられるだろう」という虚しさから、「利用を辞めたい」と思うことは多々あるし、今この瞬間にもそう思う。しかしその度に「懇意のキャストが辞めたら私も利用を辞めよう」と、先延ばしする。
 引き際すら他人の判断に委ねる自分に嫌気が差す。
 その時がまだ先なのか、迫っているのか知る由もなく、「どうしましょうか」と伺いを立て、合わない予定にため息をつき、目を瞑っては思い出す。

 あれこれ悩み、葛藤しているフリをして、ごたごた申し上げているが、答えはシンプルで明快で真実はただ一つ。
 「ならぬことはならぬものです」




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