助けを求める言葉もまた、贈与なのだ。

人の役に立ちたいなぁ、と思う。けっこう思う。
好きで珈琲を焙煎して、好きで絵を描いて、好きで断食したり糖断ちしてみたり、好きで四つ足で歩いたり、好きで文章書いて本にしてみたりしているけれど、作っているときはまだないが、パッケージングするときに「これで何か人の役に立てないか」と思う。

「世のため、人のため」
というくらいだから、人のためだけ考えるのでなく、社会、は僕にとっては自然の中の人間のことだから、社会のことを考えるのは「人のため」に入る、植物とか動物とか山とか川とか空とか星とか「世のため」に役に立ちたいもあるけれど、今は「人のため」に限定して書いています。

で、仕事って何をしたら仕事になる?という疑問をぶつけてみると、多くの人が「お金を稼ぐため」だけでは仕事にならない、と考えていた。もちろんお金を稼ぐことは現代の社会を生きるための知恵であり、全肯定はしないけど否定するのも大変。という感じで、それだけでは泥棒も詐欺も仕事として認めることにもなってしまう、というのが理由になる。「世のため、人のため」でいえば
「人のため」
になっているか、が大きく関わっていることがわかる。

そうでなくても、みんなやっぱり「役に立ちたい」と思っている。
同時に、最近は「人に迷惑をかけるな」がどんどん横行して、自己責任でなんでも解決しなきゃという風潮が強くなってる。でも、単純に考えてみるとこれでは「役に立ちたい」気持ちの行き場がなくなってしまうんじゃないでしょうか?
自分でもできるけど、あなたに任せるよ。という姿勢でなければいけないなら、そこに感謝は生まれにくいのも当然だろう。
というか最近の「人に迷惑をかけるな」は、一日中会社のために働いて、家族のためにご飯を作って、親のために勉強して、他人のためにという政治家の言葉を信用して一年の働きの対価のうち半分以上を税として納めている現状で、さらに日常の中で「人のため」なんてやってられない、少しは「私のために」みんなしてくれよ、と叫びたいくらいに皆、役に立ちすぎてるんじゃなかろうか。

でも、叫べない。頼れない。
だって叫んだら、頼ったら、「人に迷惑をかけるな」「自己責任」の声がくる。
しかも、他のみんなも同じようにもう誰のために生きてんのかわかんないくらい、自分ただ一人を除いた「人のため」にばかり動いているのもわかるから、誰に言ったらいいかもわからない。

「人に迷惑をかけない」「自己責任」は、今の僕にとって「生活のために」と同じ呪いの言葉だ。

人は人の役に立ちたい、でも迷惑はかけちゃダメと言われる。
仕事は人の役に立つことで成り立つのに、だから人を頼れない。頼る人がいなければ役に立つ人もいないのに。
でもなぜか自分の生活は人のためばかりに動いてる気がしてならない。いったい、自分は「誰の」役に立っているのか?誰が喜んでくれてるのか?

僕らは、いま忙しく働きすぎだ。それも人の役に立つためではなく「迷惑をかけない」「迷惑をかけられない」ために。
多くの人、いや全ての人はと言い切ろう、全ての人は具体的な誰かの役に立つことに喜びを感じる。でもそのためには助けを求めてくれる人がいて初めて成り立つ。
だから、助けを求めること、頼ること、お願いすることはそれだけで「贈与」なのだ。

自分が持っているモノや技術、言葉を与えることだけが贈与なのではない。自分が持っていないモノや技術、言葉(挨拶や感謝の言葉なんてその最たることだ)を明らかにすることもまた贈与なのだ。





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