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個展を終えて


四月二十六日から五月七日まで二週間、一年ぶりの個展を終えて今回の展示は、ひとつの大きな区切りだったんだ。そんな気がする、あるいは気づいた。その気持ちが個展から時間が経つごとに強くなっていて、どうして急に三月の頭のあの日に個展をやる気になったのか、GWの暇なときがちょうど空いていたのか、その理由探しをしたいだけなのかもしれない。
個展のあいだに起こったこと、だってそれらがあったから「大きな区切り」だと思っているのだ、やそれらの記憶は薄れているし湧いてくる気持ちはどんどん流されていってしまう
ので、なぜそう想ったのか、忘れないうちに残しておきたいと思って、この5年ほど野外のイベントで本降りの雨に当たることがなかった。それが個展を終えた翌週、翌々週の出店でその日に限って二週連続で雨に降られたことも、変化のひとつの現れだったように僕は捉えたがっていて、少なくとも全然降らなかった雨が降ったのは事実で、しかし野外イベントの雨は準備や片付けが面倒くさいし客足も遠のきがちだから避けたいことではあるけれど、本当のところ決して嫌な変化という気がしていないのも理由かもしれなくて、

2020年の、否応なしにやってきたコロナ禍と呼ばれた状況を、僕は率直に「戦争がはじまったんだ」と思った。「戦争」という言葉は強いから一瞬躊躇する、強いから根拠を求めてしまいそうになるが、じゃあ当たりの柔らかい言葉なら根拠が必要ないかと考えてみれば、強い弱いや言い切りや仄めかし、言い方で根拠を必要としたくなる心持ちは、自分を裏切っていると思った。自身への、自分の身体への信頼の問題、つまり直観。直観の精度。根拠はないけど、あれはやっぱり戦争だった。だった、になってるのはムカつくれど、戦争は自分がその渦中に入り込んでみるとやっぱり避けたいことに違いなかった。自分らしく生きる、やりやすさが格段に難しくなる。事が起こらないように制限をかける法律やルール、そういったものが増えるたびにやりたいことをやるハードルは高くなる、漬物を漬けて売るのに保健所が求める数百万円する設備がないと認可されないとか、家を建てるのに石の上に置くだけじゃ駄目とか、金に困ってる人にお金を差し出しても税がかかるとか、

つまり戦争は法律やルールと真反対のように見ていたけれど、実はそれらをさらに洗練させた状態なのかもしれない。法律やルールを守ることは必ずや戦争を回避する手段じゃない、戦争の反対は各々がどれだけ好きなように生きやすいか、に違いない。おかしなことをおかしいと言うのでもなく、おかしなことは無視して自身が活き活きと生きることに注目する。各々が好き好きにすると、どこかで衝突も起こるだろう。でもその衝突は、その都度その都度やり合っているぶんには戦争は起こらない。それを怠けるから戦争になる。のかもしれない。
僕はマスクは、画用紙を買いに行くときそのお店がマスクをしないと入店させてくれなかったからその店と、歯医者の待合室(笑)でしかしなかった。ワクチンは打ってない、手指のアルコール消毒はどこでも一度もしてない。「なぜ、マスクをしないのか」と直接問いただされたことが何度かあった。僕は説明する、でなければ「ごめんなさいね」と言ってその場を去る。あるいは「コロナで死ぬのが嫌なら、何で死ぬのならいいのですか?」親しい人間に聞いたこと。結局、この問題は死生観にまでたどり着く、とても簡単には踏み込んで突っ込んだりはできない話。その人の生き死にを容易に背負ったりなんてできない、個人と個人なら。ここから戦争は、起こらない。でも面倒だからなかなか向き合うことも難しい、そこにつけこまれたとも言えるかもしれない。

区切りの話だ、区切りとは何だろう?
それはきっと、ほっとけば変化し続けるこの世界、自分もその世界の法則にのっとってるからもちろん変化し続ける、その変化は細かくみてゆくと変化しながらも纏まって、また拡がり、それらが同時に起こり、絶えず動いている。人間は絶えず動いているその動きに一つの流れを見出す、そのとき他と分ける、その堺こそが区切り。

コロナ禍という戦争(僕にはそう見えている。なんだかもう終戦みたいな雰囲気だけど、ムカつくというのはその雰囲気のこと)は、戦争にならない道もあったはずで、そのことは、雨に降られなかったことが決して良いこととは限らないように、「命のほうが大事」「閉じられた空間に密集しない」と皆が必死になっていたあのときに、僕は僕自身が活き活きとできる空間を、期間限定だったにせよ、確かに目の前で見ていたんだった。
今でも、ロックダウンで世界中の経済がゆっくりになったとき、遠く南アルプスの木々が一本一本の葉っぱの塊がわかるくらいくっきりと見えたこと、昼の空があんなに真っ青で夜は星の数が驚くほどきらきらと輝いていたこと、吸い込む空気が自覚できるくらい美味しくなっていたことが、今でも忘れられない。

あのとき、僕らは岐路に立っていたんだと思う。社会はそのまま緩やかに?それまでのあり方をさらに加速させる結果になっていったけれど、しかし社会って何を指しているのか僕は、それはともかく僕は、ようやく身体へと注目していくことになった。頭だけで考えていたことがどれほど素晴らしくても身体が一致していなければ苦しいということに、気づくだけで済ましていたことに、少しずつだけど向き合っていくことになった。心身一如、身体をモノとして扱わないこと。活き活きと生きるには、身体が活き活きとしていることこそがその要であるということ。いや、身体はいつでも活きている、どんな状態であっても、細胞レベルではきっと。僕がそこに注目できるかどうかにかかっている。
あのときの伊那谷のあの光景を通じて、伊那谷だけじゃなかった、インド北部からヒマラヤが三十年ぶりだかで見ることができたと言う記事を今でも覚えてる、あの時の地球を通じて、身体が活き活きと生きることそのもの、「命が大事」を僕ら!は経験していたと思う。それが当たり前でなくなってる時代に生きているからこそ。ずっと不眠で悩んでいた人が一晩ぐっすり眠れた翌朝の朝の光に喜ぶように。

今も、あのとき区切られた世界にとどまることを決めて、社会の側に乗っからなかった自分になれて良かった。


同時に、僕が求めてた場のあり方のひとつの理想の形を、コロナ禍は見せてくれた。
もう三年になるかな。啓榕社を始めるにあたってシェアに加えてもらった駅裏のカフェは、道を挟んで芝生の公園があった。欅と桜、シイノキに楓、サザンカやらイチイだったか、おっきいのから小さいのまで植わっていて、そこには一日中柔らかい風が吹き込んできていて、駅の表側からのアクセスが悪かったからほとんど車が通ることがなくて、駅が目の前なのに静かで、とても心地よい空間だった。欅もシイノキも夏には葉っぱをたくさん茂らせるから公園は必ずどこかに木陰があって、木々はいつも枝を揺らしているから、僕の目や耳は僕が体感でないくらいの微風も捉えてくれる。37°を超えた真夏の午後2時でも、欅の下の芝生にいれば汗もかかずに、時々撫でてくる風がより涼しく感じられて、いつまででもそこにいられる。

離職を考えていた若い子が、エアコンが効いた店内で「でもやっぱり、こんな風に快適な空間で暮らしたいって気持ちも捨てられないです」と言った。その子に窓から見える欅を指差して「しばらく、あそこに行ってきてごらんよ」。その日も30°を超える真夏日だったけど、結局その子は一時間、店に戻ってこなかったから僕の方から外に出ていって、
「どう?」
「ここは、別世界ですね」
気持ちよさそうにそう言うと、彼女は芝の上に寝っ転がった。

ずっと思っていた、こんな気持ちがいい空間が目の前にあるのに、どうしてみんな狭くてエアコンがついた店内にいるのか。僕はすぐに裸足で公園に行ってしまう。店に行っても店主が外にいるので有名な店だった。別の曜日の子達に近所の人が「いつも公園で逆立ちとかしてる人、何してるの?」なんて聞かれたりしてたみたい。僕からしたら、四つ足も裸足もこんなに気持ちいいのに「なんでしないの?」と思っていたくらい。でもお客さんはわざわざ外から涼みに店にやってくるのだ、いくら「気持ちいいよ」と言ってもなかなか公園に呼び込むことは難しかった。
それがコロナのおかげで、あっという間にみんな、外の公園で過ごすようになってくれた。

ずっと、場に集まってくるのが「お客」である前に、「その人」であってほしいと思っている。その方が、さっき言った「個人と個人」になれる。店主、と客。という役割は、大袈裟にいえば、個人と個人から一歩、戦争に近づく。最近ミヒャエル・エンデ『モモ』を読んでいたのだけど、そこに出てくる酒屋の夫婦や左官屋、モモの友達になる街の人々は商売の役割よりも個人の雰囲気が濃密だった。
同時にお店的な考えとしても、店を公園にしてしまったら誰でも無料で使えるのだから見入りが少なくなりはしないかと思うかもしれないけれど、お客より人の方が当然ずっと多いので、人が来る方が客が来るより潜在的な客の数は増える、という見方もできる。それに最近よく聞くようになった店と客のトラブルの多くは、「人と人」として互いに向き合うとなかなか起こり得ないようなことじゃないかと思う。
とはいえ、人が「客」になるのは、そこに「店」があるからでもある。

公園は、「店」の風采を軽く取っ払ってくれる。
人は広場のなかで、どこに、どんな風にいるか自分で決められる。あぐらをかいても、寝転がっても、立ちっぱなしでも、それこそ椅子を持ってきたってウロウロしてたって、公園なら変じゃない。四つ足で歩いてたって、遊んでるように見えるだろう。店の中じゃそうはいかない。
そしてまた、人とどのくらいの間隔を取るかも自由。向き合って座るのか、背中合わせか、それともそっと並んで寄り添うのか、あるいは互いの空間を重ねないように位置取ることも不自然じゃなくできる。その姿を見て初めて気づいたのだけど、店内では大抵の場合テーブルと椅子はすでに決まった配置で並べられていて、決められた方向と距離で座るかしかなくて、並んで座ったり斜めにずれるのも実は結構な縛りになっている。市議会の議会を一度、この公園で寝っ転がりながらやってみてほしい、と本気で思う。人は寝転がりながら怒ることは、とても難しい。
芝生に、ある人は僕の店で珈琲をテイクアウトして、ある人はお弁当を持参して、ある人は犬の散歩の途中で「何かの集まり?」と吸い寄せられたり、そのまま素通りしたり、高校生カップルが離れたベンチに並んで座ったり。人と人が自然とくっついたり離れたり、寝そべったり転がったり、かと思えばいつの間にか車座になってむつかしい話に突入していて、それを傍目に聞く人もいたり、カップルはいつの間にか帰りの電車の中にいた。
温暖化だいや寒冷化だと騒がれているけれど、落葉樹は季節にあった木陰を用意してくれる。土の地面も、夏はしっとりと暖かく木陰ならすぐにひんやりして、冬は乾いて日の光に当たれば温かい、身体への熱の伝わりが室内とはまるで違う。芝生は草刈り機で刈ると裸足にちくちく痛いし土がすぐに硬くなるけれど、適度に伸びていればとても柔らかく、寝心地はベッドの比にならない。家を建てることを夢想するとき、僕はまずいつも、建物よりどこにどんな風に木を植えるか考えてしまう。もちろんそれは街中の家の話で、森にいれば僕は木を切るだろう。

いちばんの常連である高橋さんと、今でも二人で思い出す。
「あれは、僕らにとって一つの理想だったネェ」

話がどんどんと長くなってしまってる、

そうだ、個展が大きな区切りになってたって話。
駅裏のシェアカフェは、コロナ禍がますます大きくなってた2021年にバイバイして、いま2024年と三年近くなるけどまだ新しい場所は見つからないままで、内心焦りもあった。一年半前からは家の近くのアートハウスの定休日をお借りして珈琲を淹れながら、三年半前から描き始めた絵を飾ったりしている。
「場所を探している」というと「新しいお店?」と聞いてくれる、ここ空いてるよと気にかけてくれる人もいて、本当にありがたい。のに、なぜか僕は腰が上がらない。自分が何をしたいのか、
わからないと言いそうになったけど、一つの理想は上に書いたように、あの公園の中で立ち現れたまさにあの時間、そこに集った人の、無自覚でも身体が活き活きとなった空間。絵を描くようになって、アトリエみたいな場所もそれを飾るギャラリーのような場所もほしい、でもそれは通常の店ではない、それはやっぱり出会いたいのが「客」である前に「人」だからで、それをどう表現したらいいのか、場所を探すにもどんな場所がいいのか、どんな風に構築していったらいいのか、人に相談するにも自分の中ですら明確でなかった、

でも次第に、身の回りで起こることに「場を作りなさいな」というお告げみたいな様相を帯び初めている。絵の展示場所を探して初めて訪れた鎌倉でも、目につくこと、耳にすることは「場を作ること」に関係することばかり。時計が一つもかかっていない宿、建築家の隈研吾が「俺がやってることと一緒」と言わしめた小さな小屋の飲食店、挙句夜のロビーで親友と話してた土中環境の矢野さんと高田さんにまつわる会話に突然割り込んできたのが、日本の伝統工法で家を建ててるイギリス人の棟梁だったり。絵を飾れそうなところは皆お休みで入れず、挙げ句の果てに持参していった絵を丸ごと置き忘れてしまったり。絵を忘れてくるなんて初めて。
周囲でも、友達はみんな自分の土地、家を見つけ、その多くは古民家で、自分の手で手直ししたり、そうでなければ土地の見立てから土中環境の改善を始めるところから。
僕は、その現場に遊びに行ったり、話を聞いたり、SNSに挙げられる投稿を眺めては沸き上がる羨ましさが、焦りの竈に薪をくべて火が大きく熱くなっていく毎日。
同時に、
「お前の道はそっちじゃないよ」
という声もある。夜空に浮かぶ星みたいにそれぞれ独立して配置されている幾つかの思考。
いえ、家、イエ。カタカナの「イエ」という概念を、ヤドカリの殻くらい軽いものから考えたい。人類でなく、人間一人にとって必要最低限の空間。夜の道から見える、家々の窓から漏れる灯。それはきっと一人部屋の明かり。このだだっ広い世界の中で、たった四畳半の、だけど一番安心して居られる空間。心地よい空間には、実は広さはあまり重要でないのかも。そう考えれば、一番身近な空間は、わたし。わたし、のこの身体。どこに行こうがどこであろうが、この身体を感じるだけで安心できる、そんな身体とわたしの繋がりができれば、安心できる身体があればそれで充分。わたしの身体という、イエ。
あるいは、関野吉晴さんがギャラリートークで話してくれた一言、
「ヤノマミにとっては、家はパブリック。森こそがプライベートなんですね」
それからまた、梶川泰司さんの共鳴テンセグリティ。大黒柱の否定。
家ならぬイエ、はどうやら建築物というよりも巣、に近いのかもしれない。それを快適に、簡単に、かつおしゃれな感じで、それこそカフェに行くような感覚でみんなが「いいな、こんな空間」となるような。駅裏の公園の欅の木陰にいるような。そういえば、お客さんが公園に開放されてひとりひとり、になったことの弊害というか、嬉しい悩み、が一つあって、寒い冬、店内に集まる皆んなが席につくことを忘れて、それこそ自由にそこここで立ち話やグループになってあっちとこっちの席で、間の人を飛び越えて言葉を投げ合ったりしたことだった。冬の寒さを、外でいかに解決するか。

場のことを考えるといろんなことが想起してくるけれど、建物のことだけでなく空間への関わり方も気になっている。土中環境の矢野さんの目に見える世界が気になる。土中環境の風と水や、高田さんの通気浸透水脈。風や通気浸透水脈は、人間の身体の血に例えられることが多いけれど、感覚的には僕はそれこそ「気」と呼ばれるものに近い気がする。そういうこともあって、自分の体への注目の必要性は日々、強くなっている。みんなの自然に対する考え方や付き合い方が、自身の身体にも向けられたらなぁ、と思う。

ここでようやく個展の話に戻ってくることができたぞ、
今回の個展で、僕は初めて、作品と僕自身の間で起こる現象、を捉えながらスペースでの配置を決めていった。
作品によって、右と左の両方がまとまる傾向に向かったり、下に重さがかかるようなものがあったり、同じように重さがかかるけれど上下逆さにすると途端に重心が自然と上に上がるものがあったりする。それらが一つの空間に配置されることで、空間全体に作用が及ぶ。最初に仮置きしてみたときは、空間に入るときゅうっと締め付けられる感覚が生じて、指先が少し冷えてきさえした。そこで身体を感覚してみて、それがどこの方向からもたらされているか、あるいはバランスの偏りを感じて、そこから作品の配置を変更する。そんなことを試していくうち、空間それ自体が一つの方向へとまとまっていくのを感じて、それに乗っかっていった。
結果、アートハウスの店内で、ギャラリースペースの中だけが体感的に数℃、温度が高くなった。照明も明るくなり、空気じゃないけれど空間にある何かが下から上に昇っては広がり、下ってまた戻ってくるように、身体全体が少し熱いお湯に浸かったときと同じ効果が起こる空間になった。
期間中、観にきてくれた人に、配置を変えることでそれが消えたりまた生じたりするのを試してしてみたら、皆に同じ現象が起こっていることも確認できた。
二週間の展示の八日目に、その空間がなんだかだれたというか、効果が薄れてきた実感があったり、外が一気に暑くなったこともあったり、壁を取り付けられることをすっかり忘れていたのを思い出したり、一つまとまり切った感じがしたので、展示数を増やして、配置を少し変えたら、今度は作品ひとつひとつの存在感がはっきりするようになり、青葉が一気に伸び始めた外と同じように、芽が湧き立つような空間に仕上がった。
面白いことに、空間が変わった途端に絵が売れ始めた。
最初の空間は、全体を一つのまとまりとして感じてもらえるようにしたことを自覚してもいたし、ピースが一つ欠けると場が変わることもわかっていたし、多分それは観た人にも作用していた。それが空間を変化することで、作品の見え方も変わるという経験は、僕にとってとても大きなものになった。それは、禁忌でもあろう。だからこそ、これから作る場は私利私欲で拵えることに注意しなくちゃいけない、プライベートでなくパブリック、という概念にも通じるかな。いや、ヤノマミの「森がプライベート」はいわゆるプライベートじゃない、そこには森のものたちとの濃密な関係がある、パブリックが人間同士の関係であるならプライベートは私と人間以外との関係、ということができるかも。

展示の終わり頃になって、ギャラリーの中でぼんやりしていると

「社会へ向かえ」

という声が聞こえた。

今回のこの、身体の感応を捉えることで空間と人との関係を築いてゆく、という経験が、これからの場を作るための大きなヒントになったのだと思う。建物のあり方、内部の空間や設備の配置にとどまらない予感がしてる、これは壮大で雲をつかむような話だけれど、飯田の「丘の上」と呼ばれる旧中心市街地の復活?復興?にも関係してくる。風水とか地勢を読む術ってこういう感応から生じたものなのだと思う。
僕はずっと、この土地が好きだ。街自体にも市政にも飯田の歴史にも特別な思い入れはないけれど、この土地はとても好きだ。でも今の丘の上は、風越山の麓、山から降りてくる流れが本来はうまく広がり循環していたはずだったけれど、今はどうみても活気がなくて、むしろ沈んでるように感じる。それに呼応するように?バランスを取るように?周囲の集落は、面白いことに上がってる。阿智、下條、中川、飯島、駒ヶ根・・・
大それたことをする必要性は感じてないし、やりたいと思ってるわけじゃない。今の飯田の滞った流れのどこに点穴を開けたらいいだろうかを考えている。土中環境での見立てや東洋医学における身体の経絡や流れを観ることは、街の見立てにも繋がってるはずだという確信がある。
確かに僕が今までやってきたことは、僕個人で収まるあり方だった。0円で開業して十年近く珈琲屋をやってみたこと、絵を描き始めたこと、身体のことに注目したこと、どれも「誰でもできる方法を見つけて、それを実践してみる」という前提のもとでやってきた、でもそれは土地とは結びついていない。根無草の気分。実際、店やワークショップを開くのは、誰かが持っている店の休日をお借りしたりしてのことだし、全ての設計を「どこでもできる」ようにしていたし。
それが身体のことに向かい、まだまだ入り口にしか立っていないことを痛感しながらも、外へと向かわなきゃという気持ちがどうしても湧いてきてる。身体の感覚の観方とその細やかさ、深さ。それをYちゃんやいろんな人に教わりつつ、その眼を人に向け、さらに空間へと広げる、それは多分フラクタルで、でもYちゃんとか高橋さんとかやればいいのにと思わないけど僕よりずっとその能力があるのに、でもそれはやっぱり僕の役割ということなのだろう。そういうことが、感応を捉えた展示をやってみようとして、絵の描き方で試したり、額縁を自作したり、それらもきっと、次に僕が向かうべきことを結果的にはっきりと見せてくれていた。そのことに、個展が進むうちに明らかになったのでした。

最近、大鹿村の青木の水の味が変わった。猿倉の泉と、いつも家の近くで汲んでる野底の深山湧水は同じ水源なんだよとおじさんが教えてくれたけどそれは本当なのかな、野底の水は常に味が上下するからわからないが猿倉の水は十年前より明らかにまずくなってる。リニアのせいじゃないと僕は思う、というかリニアは一つの結果のようにみてる、なんの結果かっていったら人間の思考。
今からさほど遠くないうちに糸魚川〜静岡ラインの地震があるかもしれない、その表層では飯田をリニアが横切っていく、その工事も進んでる。そんな中で、一体僕はどこに点穴を開けるんだろう。そんなふうに考えると大袈裟になるし気が滅入るし余計な欲が入り込んでくるのがわかる。

シンプルに、今土地に関してのいくつかやりたいことを、それぞれがどこで一番心地よく展開できるか、それを感じること。ここ最近は、いつもここに戻ってくる。
今、四年前に書いた小説を明日のイベントのためにプリントアウトしてる隙にこれを書いてる。最後のページにこんなことが書いてあった

枯葉は僕の体だった。その葉が育った木だって同じ僕の体だった。葉っぱを踊らせたのは木じゃない。葉っぱが踊るとき、木も踊っていたのだ。
言、コト。コトとは現象だ。コトの葉。
風だ。人は、風だ。

読んでみたら、自分で書いたのによくわかんなかった。何を言ってるのか。
音読したら、葉っぱとか木はどれも僕のこの肉体と同じだと言ってるのだ、これは体と人を分けている、人が体を動かしてる、その体を(葉や木を)動かしている風、それが人なんだというコトらしい。風みたいに動けってことか。
風はいつも気づいたら吹いてる。吹き始めたその瞬間はなかなかわからない、でも区切りはつけられる。区切りをつけることで、また新しい流れが生まれていることに気づくことができる。
場、って何か。社会って何か。僕はどこにどう向かったらいいのか。
生まれ始めた流れにのっていきたい。わからないことは不安だけど、ほっとくとまたそのまま「変わらない」という方に行ってしまいそう、だから少しでも、できるところだけ、とにかくやってゆく。空間を感じていく、知覚より感覚。もっと僕は身体を信頼していきたいのだ、









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