空間を体感する、嘘をつかないために

四月二十六日から五月七日までの二週間、アートハウスで個展をやることにした。三月の頭にやろうと決めて京子さんに相談したら、ちょうどゴールデンウィークがぽっかり空いていたので、なんでこんな連休の時にみんなもったいない!と思ったら京子さんは「ゴールデンウィークはお客さん来ないのよ」と言うので、まさかウッソだーと思って、だから僕はこりゃ儲けもんだと即決したわけだが、実際ゴールデンウィークに突入してみると、いつもの個展に比べて驚くほど人が来ない。
SNSでお知らせしようとインスタを開くと、みんな野外イベントや自分の店で企画を催していて、こんなに色々やっていたんだ!なんだよ〜。と少し意気消沈している。

でも、そのおかげというか、来店してくれた人が被らずに来てくれるので、今回の展示で試した「空間を仕上げる」、絵の配置によってその場にいる人の感覚に変化がきたすことを、実際に並べ替えたりしながら実感してもらえているので、ただ絵を観るだけで終わらずにいられて、これはこれで良かったかもしれない。でもやっぱり、もう少し来てくれるといいな。あと二日、ある。馴染みのみんなにも会いたい。というか、こんな風にきちんと?主観での感覚で済ますのではなくて、誰もが体感していることを実証できる形で作品の配置をして、絵の展示にとどまらずに空間を仕立ててる展示は、あんまりないんじゃないかなと思ってる。

仕上がった空間は、立っていると頭の前側じゃなくて後頭部に自然と気持ちが向かうようになっている、前頭葉じゃなくて後頭葉ってことかな、かといって下に下に向かうわけではなく、足の裏に向かいつつも上に昇り、そこから円を描くように横に広がりながら下り、また戻ってくる。磁石のS極とN極の磁界?の図みたい。これは、一枚だけあんまり目につかない上の方に貼った絵のおかげでそうなった。

それで今日月曜日になって、つまりここからは昨日書いたことの続きで、続くのは「書く」ことにかかっていて内容にはかかっていない、でもなんとなく昨日何を書いたか覚えているのでなんとなく続くのではないか、今日も祝日だけどまぁ多分ゴールデンウィーク最終日だから、そして今日は連休でいちばん天気が晴れじゃない日だ、飯田の空は曇り、なので人来るかなと思ったけど今のところ客足はまばら。客というのはアートハウスの、ってことで個展に来てくれる人を僕は客とは見ていない。
さっき来てくれた友達親子に、ここにある、ある抽象画一点は上下をひっくり返すとこの場がドスンと重くなり戻すと軽くなるのを発見したのだけど、それは絵を目に入れなくてもそうなることも試し済、その場でしゃがんで立ち上がる立ち上がりやすさが変わるかどうかでわかる、それを体感してもらったら二人とも同じように上下を逆さまにしたら重くなって驚いてくれた。

こんな風に、絵に限らずそこにあるものが場に作用することを体感できるようになれたことが本当に嬉しい。
これはとても力のある絵ですね、とか作者の感情が伝わってくる、とか例えばある作品が人にもたらすものが、本当に誰にでもわかるものなのか、絵画の歴史や背景をもとに評される作品の意味や価値は、その歴史や背景や作者の志向を言葉で知らなければわからないのは当然だと思うけれど、引き起こされる体感や感情は、知る知らないよりも前に起こっていることだから、そしてその人に起こったそれらは、ほとんどの場合(というのはそういうのが観える人が観なければ、ということだ)本人以外確かめようがない、そうして同じことを感じたという人がいれば、それも数が多いと信憑性が増すようにして、言葉によって「ある」ことにされるけれど、そしてあるときにはそれがその作品の価値として定着して、さらに多くの人が感じたのか感じなかったのかを言葉に引っ張られていくことも、あるだろう。

僕は5年前までずっと、そうやって言葉にしてきていた。でも自分が言った、書いた言葉が本当にそうなのか、という根拠がまるでないことに不安を感じていた。不安というか、嘘はつきたくないのに、自分が発した言葉が本当か嘘なのかわからない状態。今は、少なくとも、作品ひとつの上下を変えたり、位置を取り替えたりすることで起きている感覚を捉えるくらいはできるようになった。言葉でも同じようなことが、本を読まない読書会をたびたび開催しては本を手に取ったとき、目にしたときに肉体の裡に起こる変化を捉える訓練をしてきたことで、本を読むと、それを書いた人が脳のどのあたりを使って書いているのか、なんとなくわかるようになってきた。ちなみのこの文章は、今日書いてるところなら頭の前側と後ろ側の比率が少し前側に多い感じで描かれ始めて、今は後ろ側に重きが置かれた書かれ方になってると思う。
展示の空間も、いつ入っても、このスペースに足を入れたら勝手におでこが静かになって後頭部に気持ちが向かうようになっている。多分、展示を感覚で捉えて進めていったからだと思う。さらに、最初の一週間は絵画で温泉サウナ状態が出来上がっていたけれど、金曜日にそれが一旦区切りがついた気がした、外の天気もまだ五日の立夏の手前だったけれど変わった気がした、そしてなぜか壁を移動して増やすことができることをすっかり失念していたことを思い出したこともあって、次の一週間は絵も新たに少し増やして、違う空間に仕上げた。外の植物たちに呼応するように、空間自体の熱は下がったけれど、活発な感じ、風が吹いているような、あたかも初夏の空気が立ち現れた。
こういったことが、主観(というか脳内妄想)だけで言葉にしたことでなく、実際の体感として、しかしこれが本当に絵だけによって起こされた作用なのか、あるいは今奇しくも僕自身が書いたように、外の気候が影響しているかあるいは足を運んでくれた人たちによってもたらされたのか(絵画で温泉空間は、人が来るたび日を追うたびに湯船の温度がぬるくなってゆくように、少しずつ空間が人にもたらす現象が希薄になっていくことを目にしていたから)、それら複雑に重層的に絡まり合った作用のどれほどを僕は把握できているかわからない。
だから、こういうことができた今も、まだ序の口にいると思うよりもずっと明確に提示されているので、それで調子に乗ることはないけれど、それでもアートハウスで観てきた色々な展示の中で、感覚的にそれをしていて説明する言葉と偶然一致している人もいたと思うけれど、意図的にそれをしている人は今のところ僕は出会ってない。こういうことは、暮らしのほとんどが自分の体が動かなければ何も進まないような時代が長いこと続いていた近代以前には、当たり前すぎて疑いもしないところにあるくらいに、人々はそれを使って生きていたのではないかと思う。

現代の厄介なところは、それなしに、言葉だけが洗練されていき、わたし自身の身体が本当に求めているところとは違うところが「快適」「理想」として行けてしまうところだろう。僕が高橋さんに批判的なところがあるとすれば、まさにそこで、自分たちの身体のことを細やかにみることなしに共同体とか社会を構築しようとしている点だ。
その意味で、今回の展示は僕にとっては新たな一歩になった。
というのも、展示も残り二日となった今日、朝起きてこの展示期間のことを反省していたら
「僕は、ここから、ようやく社会に向かうスタートに立った」
という閃きが来たからだ。



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