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道端に落ちている

社会から離れた隠居のような生活。
挨拶ができるし、人前でも声が出せるし、話題を振ることもできれば、黙ることもできる。これまでの記憶を遡って、これらが意識的にできるようになったのはここ最近なのではないかと思う。
動き出して間もなく半ば倒れたような状況になり救急車で運ばれた。
これらは与太話。

自分が必ずしも社会の中心にいるべきだとも、いたほうがいいともまったく思わない。
ただ、当たり前のように置かれる尖った小石を見過ごしたほうがいいのか、拾い上げたほうがいいのか。放っておかれ続けるそれを「それはよくないですよ」と掲げるべきかどうかがわからない。
日々起こる、気が悪くなる、誰の足に刺さるのかわからない小石だ。なぜ落ちているのかを考えたことがあるのかと、立ち止まってしまう。誰が落としたのかを覗き込んでもみる。

何も考えずに生きてこられた、もしくは受け入れてしまえた方々が落とすそれの、いかに無自覚で攻撃的なことか。また、自覚的に口にする自分のこの言い方がどれだけひどい言い回しなのか。

「それはよくないですよ」を伝えるためにどの言い方が正しいのか、未だに判別も区別もつかない。
気が付いては舌がもつれるような感覚がして、自分はどうしてこんなにも言葉を持っていないのかと歯がゆい思いをしている。
無意識的に生まれる、または自らが生む軋轢は、自分が少しでも言葉が孕む暴力性について考えたことがあるという証左だとも思った。ここにはしっかりと悲しみがある。

もうずっと、選ばないでいられた側の人間のことを薄くしか見えない場所にしまいこんで整理して。それでも深い底のほうでは憎んでいるのだと思う。
自分も選ばないでいられた人間だっていうのに、それでもだ。

選ばれてから選ぶのか、選んでから選ばれるのか。
何も考えずに生きていられたら楽だった?
どうだろう。わからない。少なくとも、どれだけ悩んでも何も知らなかったころには戻りたくはない。

こんなどうしようもない社会で生きていくのは大変でしょう。
大変な道を選んだつもりがなくてもつらい思いをしたでしょう。
自分はずっと、どうしてだろうと考えては「Alright」と言えずにこれまで過ごしてきた。

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