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自己紹介に次ぐ

ありがたくも近しい方々から諸々の助言をいただいたため、このようにnoteというプラットフォームにて文章をしたためている。
私は「あなたは何かしらの文章を書いて外に出したほうがいい」といった内容の話をしてくださった方の話を聞いていた。そして、しっかりと聞いていたような反応をしていたと。
しかし、さっぱり記憶がない。
なんてことはない。思えば自己評価が他者からの評価とまるで合致していないことに因るものだった。

「私ができることは誰にでもできる。」
そう思って久しい。今ですらそう思っている。
複数人からやたらめったら「そんなことはない」と言われて、こうして筆を執っている。
このアウトプットがなんの役に立つのかずっとわからない。

およそ良いとは言えない暗い思春期を過ごしてしまったため、人から向けられる好意を素直に受け取れるはずがなかった。
そのような生き方をしていないから、そのような自己肯定を得てこなかったから。

たとえば、私は他人と話すのがあまり得意ではない。
会話は連想ゲームのようにとっ散らかる。
人前で話をできる人間のほうが、社会人になってからの立ち回りは楽である。
しかし、間違いなく「口に出すより書くスピードのほうが早い」という自己認識がある。
文章は推敲ができて、出した後でもだいたい編集ができる。そのこと自体がなんて素晴らしいことなんだろうと思う。
わからないことは本や何かしらの媒体で調べるし、文脈を読みたがるし、行間について思いを馳せてはおよそこうであろうという解釈をしたがる。
他者は上記の3つまではあんまり、しない、らしい。
本当か?と未だに思う。

他者からの称賛を額面通りに受け取ることも、自身への一種のやさしさだ。
そこにはなんらかの達観した意識が必要だと思っている。
それでも猜疑心は全体の8割くらいで、残りの2割で私はこっそりよろこびたいと思ってはいる。
どなたかの目に留まれば、好ましかったり興味深いと思ってくだされば、また反応をいただければ、こんなにうれしいことはない。

しかし、自我を保つのはいつだって前者だ。
いつの日かその猜疑心をふっと忘れたとき、残りが驕りとなって首を絞めるような気がした。

楽しかったことが楽しくなくなってしまうのが悲しい。
この気持ちをつい最近になって言語化できた。

すべりたくない。

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