リハビリ/テーマ/『傷』20190313

さて、先日思ったことを書きなぐった日記を読みやがった人達にはわかっているかもしれないが、今回は私の崇高なる文章力を取り戻すためのリハビリである。テーマは『傷』である。

類まれなるガチャ運を持つという噂のぷにばらさんに「お題生成機」というガチャを、書きやすいテーマが出るまで回させたが結局変なものしか出てこないので諦めた。

比較的まともなのがこれだ。午後二時とかいう惜しすぎる題材。12時間ずらせ。踏切に行けないじゃないか。見えないものを見せろ。
そんなわけでこうやって前書きみたいなものを書くのはなんだかかっこ悪い。見栄えが悪い。顔も性格も悪いがそこらへんに言及しだすときりがないのでやめておく。ここからは格好いい文章を書くのだ。

はい切り取り線。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

自分は生きているものが嫌いだと思っていた。人間が嫌い、犬も嫌い、虫も嫌いで魚も小骨があるから嫌い、と来れば生きているもので好きなのは猫とペンギンとイルカぐらいである。ねこかわいい。
基本的に生きているものは裏切るものだと思って生きている。犬は噛み付くし蚊は網戸をすり抜けるし魚は小骨が喉に刺さる。その点ものは裏切らない。今直前の文章で網戸が裏切った気がしたが気にしない。RPGで魔王あたりに殺される大富豪のようなセリフだが、僕はそんな考え方を持っている。猫はティッシュペーパーをちぎるくらいだからかわいい。

動くものが視界にあるのがそれなりに苦痛だった僕は浪人期間中は部屋に引きこもり、人と顔を合わせない生活を送っていた。学生という肩書を失い、無職という人生の空白期間を絶賛延長していることを除けば理想の生活だった気もする。まあ親と毎日喧嘩していた気もするが。
色々あってその理想の生活を抜け出し、大学生という肩書を手に入れ、その先何年かゴムゴムの実の能力者のようにモラトリアムの延長に勤しむことにしたのだが、田舎出身の僕にとって金沢という地は人が多すぎた。駅付近を歩いているだけで人に酔ってふらふらしたし、前から歩いてくる人にぶつかりそうになると立ち止まってしまうし、大学に入ってできた彼女には「視線が泳ぎすぎている」と言われた。僕にとって人の目玉というのは人を石に変えてしまうメデューサみたいなものであり、2秒と直視できない。「浮気してない?」とか言われながら目を見られたら間違いなく僕の視線は太平洋のど真ん中に置き去りにされた北島康介のごとく泳ぎまくる。何も言えねえ。

話は変わるがその女の子には脚に縫った後、古傷があった。僕の脚にも親にガラス片で刺された時の傷跡が残っており、それがきっかけで仲良くなった気もするが思い返すとどん引きされていたような気もする。

ここまで劇場版きかんしゃトーマスレベルで脱線した話が続いてきたが、今回のテーマは『傷』であり昔の彼女のお話ではない。僕は昔の彼女ですら話の導入に使う鬼畜野郎である。ここからやっと『傷』の話になるのだ。

さて、急にド変態な話になるが、僕は人の古傷が大好きである。いや、傷口に塩を塗るのが好き、とか言い出すわけでは無い。僕はそんな鬼畜野郎ではない。優しい男である。
人間何年か生きていればまあどこかに傷があるだろう。…かもしれない。精神的なものではなく、肉体的にだ。僕もさっき言ったガラス片の傷だとか、親にバットで殴られて頭を縫った傷とか、スケート靴が刺さって縫った後だとか、転んで川に落ちて流された時にできた傷などなどがある。いくつか死んでそうな案件があって我ながら引いている。
そんな傷が治って暫く経つと、そこの部位がぷっくりとする。なぜ元の皮膚のように真っ平らになってくれないのかが不思議だが、僕はこれを見るのが好きだ。撫でるのが好きだ。メンがヘラっている人と付き合っていた時はリスカの跡をぼんやりと見ていて殴られた。楽器のギロみたいだな、と言った。いいじゃんギロ。小学校の発表会でみんなキーボードやリコーダーや鍵盤ハーモニカを使っているのに僕だけギロ。存在意義がわからんけど。これ観客の親に音聞こえてんの?持ってる僕にすら聞こえてないんだけど大丈夫?無理やり楽器ができない僕に役割持たせてない?ギロに失礼だろうが音楽の先生さんよ。プロのギロ使い、ギロラーの謝っていただきたい。でもギロラーってギロチン愛好家みたいな響きでちょっと怖いよね。そんな思い出が一瞬でフラッシュバックした。結果としてその女の子にはフラれた。昔の記憶である。

世界は変な性癖を持つものに対して厳しくできている。以上、変態からの言葉である。気をつけよう。



さてこのままではこの内容が本当に変態の独白で終わってしまう。リハビリどころでなく、人間的評価リーマンショックのきっかけになってしまう。のでもう少し駄文を付け足すことにする。

そもそもなぜ古傷が好きなのか考えてみよう。体を動かしたくなるから音楽が好き、手触りがひんやりしてそうだからドラえもんが好き、人間を見下してそうだから猫が好き、といったように好きなものには必ず理由があるはずである。ねこはかわいい。

古傷は好きなのであるが、欠損(脚がなかったり)とかはむしろ大の苦手である。痛いのは嫌い。だって痛いじゃん。幻肢痛とか考えただけで怖くなる。メタルギアソリッド5をやれ。それと、傷跡が好きだからお前を切りつけてやるぜ、みたいなやばいサイコパスみたいな思考も無い。痛いの怖いじゃん。今吉野家で牛丼の超特盛を食べているところにトラックが突っ込んできて異世界転生したとしても間違いなく戦士にはなれない。なれても踊り子かひつじかいくらいだろう。

そんなわけでここ数年だらだら考えていたのだが、傷跡というのは、言い換えてみれば「治った」という意味である、という事に気がついた。つまり、生きていなくてはできないものなのである。

昔、NHKの何かの番組を見て感化された僕はあちこちから廃材やら釘を持ってきて木の上に家を作ろうとしたことがあった。まあ10歳くらいの糞餓鬼にできるわけがなく、家にはは程遠い「枝の上にできた床」に近い感じだった。しばらくするとこの時の僕よりも更に糞餓鬼の弟がやってきて勝手に登り勝手に落っこち勝手に怪我をして結果僕が怒られるというピタゴラスイッチが発動した。ひどい理不尽である。さらに僕の家という名の床を取り壊せという。使い方を間違えて怪我をした挙げ句文句を言ってくるクレーマーかよ、と当時の僕は思わなかったかもしれないが、泣く泣く家という名の床は解体されることになった。枝には釘を刺した跡だけが残った。

数年後、地元に帰省した時に、その木を見てみた。木は大きくなっていなかった。ひどく小さく思えた。社会という名の圧力に押しつぶされ続けた僕が無駄に縦に引き伸ばされただけかもしれない。同調圧力とは恐ろしいものである。その木は枯れ木であった。おそらく僕が家という名の床を作ったときから。枝には僕が刺した釘のあとが残っていた。生きていなければ、傷は治らない、傷跡にならないのである。

傷跡というのは生きているエネルギーである。「ふるえるぞハート! 燃えつきるほどヒート!! おおおおおっ、刻むぞ血液のビート!」みたいなものだ。吸血鬼すら爆散させることが可能である。もしかすると僕は傷跡が好きなのではなく、傷を負っても生きようとするエネルギーが好きなのかもしれない。そうだ、これは素晴らしい人間賛歌なのだ。
と言うことは僕は生きているものもそれなりに好きなのかもしれないな、と思ったのだった。あんなに生きているものが嫌いだった僕がこんなにも人間らしくなって…。いやあ素晴らしい結論である。
こんな感じで変態の独白からは脱却しておきたい。
いつも思うが僕の書く文章は起承転結の結が手抜きな気がする。これでは起承転欠だ。就職活動においても締めがなさそうでとても不安である。永久に続く就職活動。無限に伸びていくモラトリアム。生き地獄かな。


このようにして僕は人間への関心を取り戻した訳だが、今は必死に文章力を取り戻そうとしている。これは全ての人間力を取り戻すため、リハビリと言う名の長い道を突っ走る男、いや漢の物語である。そろそろ答えを求めてアマゾンの奥地へ向かいたいものだ。(完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?