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ビデオゲームファンは分断などしていない

だらけです。
ここ連日続けざまにゲーム音楽に関する記事を読みました。

発端がこの記事。

それに影響された様々な記事を読みました。

その後しばらくして、ネットメディアの編集長と副編集長からこの話題に対して記事が発信されました。

話題に関する様々なツイートも目にして、思うところを一つずつ残してゆこうと思います。

「ビデオゲームファン」は分断していない

「ビデオゲームが好きだ」というのがビデオゲームファンの定義ならば、五輪開会式でゲーム音楽が使われたことに対して歓喜の声を挙げた人も、拒絶した人も、そうでない人も皆ビデオゲームファンのままだ。あの開会式をみて「もうゲームはやめる!」という人もいたかもしれないが、少なくとも批判的な立場の人でそのような発言は見受けられなかった。(選曲についての是非や演出方法に対する批判も少なくなかった)
開会式でゲーム音楽が使われ、その後に様々な気持ちをもったかもしれないが、それによってゲームやゲーム音楽そのものの魅力が変化したわけではない。(と、する)分断があるとしたら、ビデオゲームに問題があるのではない。それぞれの人の心の中にある。

電ファミの記事内では「インターネット上で分断が進む仕組み」としてフィルターバブル現象とエコーチェンバー効果を紹介したうえで「情報が選別されていることに無自覚的であり、どんどん先鋭化してゆく」(大意)ことに警鐘を鳴らしていた。そのうえで「ネット社会の構造を自覚したうえで、分断を煽るのではなく、建設的な記事が増えてほしい」(意訳)と述べている。他人事だ。「分断の仕組み」を理解したところで、なぜ今回このような「分断」が起きているのかは理解できない。そしてその「なぜ」に対して記事内では意見を提示できていない。「建設的な記事が増えてほしい」と言ってはいるが、この記事が建設的なものにはなっていない。ゲームスパークの記事はいいねを求める為や、内側に響きあうために書かれた記事ではない。
「『伝えよう』『分かってもらおう』とする姿勢」が大事だと述べているが、ではいったいどのような姿勢ならそのようなものだと捉えられるのだろうか。「わかりやすいやさしいことば」だろうか、それとも「相手の立場や気持ちに最大限同情したうえで、そこから諭すことば」だろうか。「あなたはなにもわるくないよ、そのままでいいんだよ」という肯定だろうか。建設的か否かで言うならば、ゲームスパークの記事は「東京五輪の開会式にゲーム音楽が用いられた」という政治的な活動に対して、それを正面切って取り扱ったのだからこれこそ建設的な記事だと言えるだろう。TAITAI氏(電ファミ記事筆者)の思惑通りに多くの議論を生み出してもいる。TAITAI氏こそ件の記事で自身を振り返らなければいけない状態なのではないかと感じた。

思い出に浸る時じゃない

てっけん氏の記事の中では「五輪の開会式で使用されるところまで、ビデオゲーム及びゲーム音楽がたどり着いたこと、そしてそこにたどり着くまでに多くの人たちの苦労や苦悩(クリエイターもファンも含む)があったことを理解してほしい」という趣旨が自身の体験したことと共に述べられていた。この気持ちはクリエイターの方が顕著だったようで、自身の経験を詳細に語っていることが多く、当時の話を聞けることはとても興味深いものだった。
てっけん氏も気づいてるだろうが、当該記事では別にゲームファンそれぞれの思い出を否定しているわけではない。これまでゲームに関わってきた中での体験や思い出などをファンとして肯定したうえで、今回の五輪開会式での扱いに対して批判をしている。当該記事が指摘しているものは、てっけん氏の指摘のさらに1歩先をすでに歩いている。

それでもこれほどに当該記事が大きな話題になって多くのゲームオタクから拒否反応のように怒りの声が集まっているのはなぜか。

その理由として、記事内で自分たちのことが「チョロい」という言葉で評されたこと、そして記事内の文章が「断定的で乱暴な物言いに聞こえたからだ」というのが推測される。

批判にナイーブで他人に暴力的なオタク

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画像は当該記事に対する反応をみたとあるオタクの感想ツイート。「殴りかかっている」「支持されるわけがねえだろ」等乱暴で粗雑な様子が見受けられる。このツイートに限らず、当該記事へのリプライ等にも多く見受けられるが、オタクは自分が「敵」と見定めた相手には徹底的に罵倒し否定する暴力的な性質があることは否定できない事実ではないだろうか。
(蛇足だが、暴力的な表現が尽きた時に、オタクは「冷笑」という態度をとることも多い。冷笑は「無敵の態度」だからだろう)

ではなぜここまで感情になったのか、彼に言わせると「『自分と違う意見のやつは愚かで馬鹿』と殴りかかってきた」からだ。ところが当該記事には、そのような記事や表現は全くなされていない。せいぜい「語気が強い」の範囲で収まっているものだろう。「殴りかかる」とは何か?批判されたことの言い換えだろうか。兎角にオタクは暴力的な言葉を好み、そして自分たちは純粋無垢で殴られる被害者だという立場を好む。なぜならば、「殴られた被害者だから、殴った相手をボコボコにしてもよい!」と思い込んでいるからだろう。実にヤンキー的な発想だと言える。

当該記事で示されていることは、相手を殴るという暴力行為ではなく、記事を読んだ読者、かつゲームファンの内心に対する問いかけだ。ゲームファンの持つ「想像力」があれば、「五輪開会式でゲーム音楽が使用されること」の政治性やその意味が想像できるのはないか。政治的に都合よく利用されたことを喜んでいると「文句言わずに従うチョロい連中」だと思われてしまうのではないか。と。読者の心に対して投げかけ、考えを促すように書かれている。

ところがなぜオタクがこれほどに逆上し拒絶するのか。先ほど指摘した通り相手を「敵」だと認めたからに他ならない。理由は幾つか思い当たる。
1つ目は「政治的な話題を取り扱う奴は馬鹿だから馬鹿にしてよい」とオタクが信じているからだろう。今回はたまたまビデオゲームだが、とにかく政治に関する話題をオタクは嫌う。「政治的だ」と評されることはオタクにとって最大の屈辱なのかもしれない。
2つ目は「相手が語気の強い言葉を用いたから」だ。断定的な文体などを「強い物言い」と感じ、それを恫喝だと思うのだろう。だからこそオタクたちは自分たちを「殴られた被害者」だと主張することができる。
3つ目は「オタクが自分たちのことをチョロいと言われたと思ったから」だ。つまり記事内で指摘されている「大増税しても何しても、ゲーム音楽を流していれば文句言わない」ことを自覚していたからだろう。また記事内にあった「五輪開会式でゲーム音楽が使用されるのは政治的である」ということを認めているが、納得できないことに気付いていたのだろう。そして相手に自分の属性を指摘された時に、内省して自分のことを振り返ることを選択せずに、相手を攻撃することを選んだのが今回のオタクなのだろう。(なぜならば相手の意見を受けて内省することは、「論破された!」ということだから)

「誇らしい」という「認められたい」気持ち

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先ほど触れた「政治的な話題に絡められることへの嫌悪」にも繋がるが、五輪開会式の政治性云々を横に置き、「多くの人が見るような国際的な場でゲーム音楽が披露されたことは『純粋に』嬉しい」という意見も多く見られた。そしてその中には、開会式のメドレー曲を作曲したクリエイターの声も多かった。「このような大きな場で披露される日が来ることが嬉しい」という声が多く聞こえた。それまで鬱屈した思いを抱えていたからこそ、「晴れ舞台」で披露されたことがとても嬉しいのだと思う。
今一度胸に手を当てて考えてほしいのだが、今回ゲーム音楽が使用された東京五輪は、そもそもそれほどに誇らしいものなのだろうか?
開催に至るまでの経緯を少し思い返してほしい。五輪誘致の頃から収賄疑惑があり、「復興五輪」と銘打たれたものはいつの間にか立ち消え、コロナ禍における感染対策も満足にできず、国内のワクチン接種も進まないまま思考停止のように開催にこだわり続け、いざ開催したら参加したアスリート達から体調不良が続く、五輪関係者及び選手から感染者が出る、アスリート達の為に医療従事者・ボランティアのマンパワーを大幅に割く一方で(予想できたことだが)国内の感染者は急激な増加をし病床が足りない事態になっている……。

開会式に関しても、当初の案から大きく外れたものになってしまった。森元会長の女性蔑視発言にはじまり、女性プロデューサーの辞任、電通の後任プロデューサーが提示した差別や偏見に塗れた案、五輪憲章と照らし合わせて不適格な関係者の辞任・解任による二転三転する内容、それでも無理やり開催された開会式。本来の案から外れて、間に合わせのように「ゲーム音楽を流す」ということだけで選ばれた曲。この五輪を後世から振り返る際に、これらの顛末や問題はずっと残り続ける。こんな五輪に関わることが、本当に「誇らしい」ことなのだろうか。五輪という看板にだけ名誉や権力を感じ、そこに迎合する態度になってしまってはいないだろうか。

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そもそもオタクは「公式」などの権力に対して迎合的な性質が強い。権力に阿ることで自分が認められたという態度をとることが多い。だからこそ「天皇陛下が見てくれた!」という言葉も軽々しく出てくるし、「(曲を作った)クリエイターが喜んでいるんだから文句言うな!」という擁護も秒速で飛んでくる。問題の是非や内容に対して言及することなく"権力"がどのような態度をとったか否かが大事であり、公式を「神」だと崇め自らはそれに仕えるように「推し」続ける。

そしてそれこそが、当該記事で指摘していた「チョロい」ということだ。オタクは「チョロい」と言われたことに対して「自分はチョロくない!」と思って反論したのではない。当該記事が指摘したことがあまりに図星だったから逆上して怒りのままに殴りかかったのではないか。そんな絶望的な考えすら導かれてしまう。

自身を省みて問題に向き合うべき

「ビデオゲームファンは分断などしていない」というタイトルでここまで記事を書いた。当該記事に賛意をしめし、ゲーム音楽の政治的利用やそれに対する意義について考え語るファンもいる。それは彼らがビデオゲームが好きだからであり、これから先の社会でビデオゲームがどのように在るのかを考えた上で向き合っているからだ。

今回改めて可視化されたのは、インターネットオタクが以前から抱えている様々な問題点だろう。そしてそれが東京五輪の開会式という大きなイベントだから動きも大きくなったし、その問題を当該記事で歯に衣着せぬ物言いで衆目に晒されることになってしまったことによる、バックラッシュというのが正しいのではないだろうか。

私たちが社会で生きてゆく以上、政治的なものは必ず存在する。そしてそれらに対してどのように向き合い行動したのかが、社会に影響を及ぼし、自分たちの責任となる。これから先の社会で、自分の大好きなビデオゲームが社会でどのように受け止められ、どのような影響を持ち続けてゆくのか、それが今私たちビデオゲームファンに委ねられていると思う。

そして今回このような「分断」を生み出すような社会情勢、価値観、経済状況、コロナウィルスの感染状況に対して、最も大きな影響を与えているものの一つは政治だということを再認識すべきだと思う。「相手」を見誤ることなく、問題に向き合うことが今求められている。

(追記)
関連記事として紹介します。

(追記2)
7/30本文に数か所加筆修正を加えました。

たくさんのゲーム音楽演奏会に参加して、たくさんレポートを書いてゆく予定です。