なまえのおはなし③
こんなタグがあったのね。
これまでさんざ名前の嫌な思い出ばかり語ってきたけど、今回は私が今名前を好きでいられている理由と、そのきっかけとなった恩師2人について紹介させてください。
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一人目は高校の書道部の顧問。
定年間際のおじいちゃん先生だった。
女子高のおじいちゃん先生はかわいがられるのが常で、顧問も例に漏れず愛でられていた。
愛でるという感覚ではないが、博識でフレンドリーでいつもにこにこしている顧問のことが私も大好きだった。
書道未経験で入部した私はちょっと浮いていた。
芸術の選択教科も音楽で、なんで書道部にいるのか不思議がられた。
私もわからなかった。女子ばかりのマンモス校の音楽系部活はどこも人気で、キャピキャピした空気がどこか肌に合わず、たまたまふらりと立ち寄った書道部の雰囲気があまりにもしっくり来てしまったのだった。それでいつのまにか入部届を出していた。
基本個人活動の書道部はフリーダムな部員が多かった。
好きな書体、部室に来る頻度、提出する展覧会。みんなバラバラ。良い意味で放牧的なスタイルに惹かれたのかもしれない。
そんなわけで私もひときわ自由に活動させてもらった。
顧問は部員をよく見ていた。少人数とはいえよくあんな奔放な生徒たちをそれぞれ観察できていたなと思う。
私の没頭&感情表出という芸術スタンスもすぐに見抜かれた。
緻密で微細な書道という芸術において仇にもなりうる特性だ。しかし顧問はとことん褒めた。
キレイなだけが書道ではない。「書は人なり」という言葉を、顧問は愛していた。
活動の7割は臨書と言って名著のカバーである。故に必ず作品のどこかに自分の名前と判を印す。
私も自分の印を篆刻することになった。
名前と向き合うのはどうも苦手で気が進まない。そんな私を知ってか知らずか、顧問は私が添削に来るたびいつも言った。
「あなたの名前はそのまま雅号にできるね。読みをこう、音読みにして……うん。美しいねえ」
雅号とはつまりペンネームだ。一高校生が雅号を使うことはまずなく、プロだったり先生みたいに書を生業としている人が使う崇高な代物。
顧問にも雅号があった。
文字のプロに文字の美しさを褒められた。
文字を愛してやまない先生に。
私はこの名前で生きていることがほんの少し希望になった。
名付けの経緯が消えるわけではないけど、文字一つ一つの、そのものが持つ美。字の源、その形。そんなところに注目したことはなかったので、なんだか新しい意味を与えられたような、大げさに言えば生まれ変わったような、小さな清々しさがあった。
私が微妙な反応をしたせいかもしれないが、顧問はそれ以上深く名前に触れることはなかった。それも嬉しかった。
愛し抜けるポイントが一つありゃいいのと、かのB'z様も唄っている。
ミリも愛せなかった名前に、愛せるポイントをくれた顧問。
もう随分会っていないけど、また会えたら必ず感謝を伝えたいと心から思う。
余談だが顧問はいつも部員を下の名前に氏をつけてで呼んでいた。
その呼び方を後輩が踏襲して「~~氏先輩!」と呼ぶのでだいぶおかしなことになっていた。
みんなその呼ばれ方がなんだかんだ好きで、今でもSNSのプロフィール名にしていたりする。
そんな飛び道具まで使って、顧問は無意識に私たちに名前を愛させてくれた。そういう魔法みたいな力がある人だと勝手に思っている。
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もう一人は大学で出会った同名の友達。
大学では音楽に本腰を入れようと決めていたので、音楽系のサークルを片っ端から見学していた。するとどこに行っても必ず見かける子がいた。
なんと同じ名前だった。すぐに仲良くなった。
最終的に同じアカペラサークルに入った。
その子は最初からバケモノだった。先輩含む全サークル員があんぐり口を開けてしまうほどとんでもないレベルの実力の持ち主だった。
とんでもなさすぎて逆に全然バンドが組めなかったほどだ。私は初めてのバンドをその子と組むことにした。
バケモノレベルであるにも関わらず謙虚で仏のように落ち着いていて、しかも抱腹絶倒のギャグセンスまで兼ね備える完璧なキャラクター。誰からも愛された。
同期だけど憧れの存在だった。同じ名前だけど、同い年だけど、同じバンドを組んでいるけど、それ以外もう何もかもが違いすぎた。
そんな存在が真横にいてしまうと、いくらフリーダムな私でも焦ってしまった。
容量の良くない私は焦れば焦るほど空回り。
最初の1年はそれはそれは影が薄い存在だった。
1年後、先輩の卒業を機に最初のバンドは解散。
それからは実力と人気に相応したバンドが組まれていった。大量のバンドを組む彼女の音楽的領域に私が入り込む隙間はもう残っていなかった。
その頃には私も私でやりたいことを少しずつ任せてもらえるようになり、本格的に別の道を歩いていた。
彼女は既にサークルの顔だった。
外部活動も積極的に行い、ちょっとした有名人になった。
一方私は裏方に徹していた。
私のやりたいこととは編曲だった。サークルじゅうのバンドに楽譜を作って渡すような毎日。やりがいがあった。
やがて私たちは二人ともサークルの幹部に就いた。
相変わらず憧れの存在はいつも横にあって、そしていつも遠くにいた。
夢のように楽しい日々だった。
だけど正直悔しくて仕方なかった。
実力が違うというのはよくわかっている。実のところ編曲においても彼女は数枚上手だった。
そしてアカペラが、音楽が勝ち負けではないというのもまた事実で、私も私で最後まで楽しみきった自信がある。
比べられない。比べ物にならない。比べる意味もない。
それでも私にとって彼女の存在は大きすぎた。
舞台上で輝く彼女に憧れ続け、もがいて、上手くいかなくて、泣いた。
彼女はソロ活動もしていた。
ほとんど実名で。奇しくも「文化を実らせる」という意味が込められたその名前を、彼女はきちんと大事にしていた。
名前が同じと言っても漢字も由来も愛着も違う私。
だけど、いやだからこそ、目の前に名前に誇りを持って歌い続ける同じ名前の彼女がずっといたことに、何か意味を感じてしまう。
私は弟と違ってこの名前で生きていくことを決めている。
いつまでも嫌いだなんだ言っていられない。
思い出が消せないのならば、もっと強烈に上書きするだけ。
私がこの名前で幸せに生きていくイメージを形作るのに、彼女の存在は今でも大切な大切な材料となっているのだ。
ずっと歌い続けてくれてありがとう。
貴女が私と同じ名前で良かった。
貴女と出会えて本当に良かった。
大学卒業前の最後に一緒に歌えたあの日、理由も語らずそれだけを泣きながら伝えたらびっくりされたけど、
相変わらず仏のように笑いながら側にいてくれた。
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そういうわけで、名前の漢字と音だけは少し好きになれた。
産み落とされたものは、名前を授けられて初めてその存在を認められる。社会的に生きるのは名前があって初めて成り立つ。
名とはいのちそのものだ。
だからこの世で一番短い呪いなんて言われる。
いのちを動かす力がある言葉なのだ。
二人は紛れもなく、私のいのちの恩人。
少しでも何かが噛み合わなければ、巡り会うことすらなかった。
運命ってあるなあと思う。
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