見出し画像

10月4日「聖書の語りかけ」ローマ人への手紙1章1節①「私は奴隷です」

"キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。"1章1節

Paul, a bond-servant of Christ Jesus, called as an apostle, set apart for the gospel of God,(NASB)

ローマ人の手紙は、人類の歴史を大きく変えたと言っても過言ではない。プロテスタント運動を導いたルターは、このローマ人への手紙から大きなインスピレーションを得た。

この新約聖書の偉大な手紙の最初の一節が「私は奴隷です」と言う自己紹介から始まるのは、驚くに値する。いったいこんな自己紹介が、どこにあるだろう。

新約聖書の27の書物のうち、実に13の書簡を書いた偉大な教師で宣教師、牧会者にして使徒であったパウロの真っ先にくる自己認識は「奴隷」であったのだ。彼の「使徒」と言う肩書きは、決して「奴隷」の前に出ない。そう、彼の主人であるキリストもまた、天の御位を捨て、仕える者として僕となられたのである。

私たちは愚かにも、表面的なタイトルや肩書きで人を評価し、あるいは優劣をつける。そして優劣の関係で、人々に対する態度を使い分けることがある。

看護分野の歴史的な改革者として知られるナイチンゲールは「弱者や病者に対する態度によってその人の本質が顕(あらわ)にされる」と言った。
つまり、人は自分よりも力や権力ある者に対しては、当たり前のように、うやうやしく礼儀正しく振る舞う。しかし、自分よりも身分が低く無力な者に対しては、横暴かつ雑に扱うことが往々にしてよくある。弱者に対する態度こそは、その人の本性を表してしまうと言うのは、まさにその通りだ。

主イエスは言われた。
「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」マタイ25章40節

主は、空腹な者、渇く者、旅人、裸の者、病人や牢にいる者、これら最も弱く小さな兄弟にしたことは、すなわち「わたしにしたことだ」と言われたのである。(マタイ25:37~39)

弱き者たちへの尊敬や敬意は「自分は何者でもない」と言う自己認識から始まる。

もし私が何かの肩書きを名乗ることが許されるなら、あの使徒と同様に「奴隷です」と真っ先に自分を紹介する者でありたいと願ってやまない。

主よ、私の内側に何者かになりたいと願う野望や高慢のあるなしをご覧になってください。
主なる神よ、私は単に「あなたの奴隷」と呼ばれるだけで充分な者です。
そしてむしろ、強い者にへつらうのではなく、自分よりも弱く無力と思える人々に順応し、彼らに最大の誠意と真心をもって接することができるように、私を作りかえてください。主イエスの御名によって。アーメン。

※シェアはご自由にどうぞ。

文責 MJH 石野博
#聖書の語りかけ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?