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【10月8日「聖書の語りかけ」ローマ人への手紙1章1節⑤】「恵みに応える者」

キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。"1章1節

Paul, a bond-servant of Christ Jesus, called as an apostle, set apart for the gospel of God,(NASB)

上からの一方的な恵みによって救われ、キリストの僕、そして使徒として召されたパウロは、福音のために選び分かたれた。

彼を使命のために選り分けたのは神である。しかしその一方でここには、「神の選び」という、パウロにとって受動的な要素と同時に「使命のために自分を捧げる」という、彼の積極的な応答もある。ここに恵みを受けた者の責任を垣間見るのだ。

聖書の反対者からよく受ける質問に「そんなに恵み、恵みと言うと、人間がダメになってしまうのではないですか?」というものがある。しかし実際はそうではない。
キリストによって罪に死んだ者は、罪を自分の性質として生きることに大きな違和感や痛みを感じる。死んだ者は決して痛みを感じない。ではこの痛みを覚える自分とはいったい何者なのか。そう、それはキリストにあって新しく生まれた自分なのである。この新しい自分は罪を嫌悪し、神の戒めを喜ぶのだ。

命は命を産むし、愛は必ず愛を生む。もしキリストの愛が、私の内にあって生きたものであるのなら、私たちはキリストを愛さずにはおれないはずだ。パウロはその愛という動機に押し出され、使命のために自分を捧げた。

私たちはエクレシアの一員として、「古い罪の世界から召し出された者」なのである。もしあなたが、召し出されたはずなのに、古い罪の生き方に、何の痛みも違和感も感じることなく安住しているのなら、自分が本当にキリストのものとせられているのかを確認する必要がある。痛みも感じぬまま、以前と同じ生き方をできるとすれば、その人はそもそも救われていない可能性がある。
また「自分はクリスチャンなのに、なぜいつまで経っても変わらないのだろう」と、あるべき姿に程遠い自分の現実に落胆して悩む者もある(特に真面目な日本人には多い)。しかしそのような痛みに悩むあなたなら、どうか安心してほしい。それはクリスチャンにとってのいわば「成長痛」とも言える痛みだからだ。そもそも救われていない魂は、そのような悩みすら持たない。聖さへの願いとそれに伴う悩みは、救われている魂の特徴だ。「愛されている」からこそ、「愛する」ようになる。そしてこの聖さへの願いとは、神を愛するからこその願いなのである。

主なる神よ、あなたの恵みと愛とが、私のうちでいよいよ生きたものとなって、なおあなたを愛する者となるように、日々私を変え続けてください。主イエスの御名によって。アーメン。

文責 MJH石野博

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