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「子どもたちのミーティング」を出した頃02

私がりんごの木に入職したのは29歳になる年のことで、それまでに愛知の私立幼稚園で6年、横浜の保育園で1年、保育に携わってから後のことでした。

りんごの木に入ったときもそれなりの保育経験があったわけです。
だから保育のおおよそのことは、りんごの木に入ってからもだいたいにおいて見当がつきました。

保育というのは園によってその内容や考え方が大きく異なりますから、7年の経験があっても、りんごの木ではまるで初心者からのスタートになったわけですが、それでも子どもへの関わりや保育者同士の連携については、それまでの経験が少なからず助けにはなりました。

とはいえ最初の頃は日々注意を受けるばかりでした。
文字通りの意味で、一言一句直される、話すはしから言葉について、「それはおかしい」「なぜ、そんなふうに言うのか」などと指摘されてばかりでした。

そうした問答は、その背後にある理屈に納得がいくものばかりでしたので、そんなに萎縮もせずに「なるほどな」と思いながら聞いていました。

でもミーティングについてはまるでだめでした。
なにがだめかというと、まず注意されたり、訂正されたりする、その背後の理屈がまるで見えてこなかったのです。

自分がミーティングをやるとあからさまに子どもたちが聞いてくれない、つまらなさそうにするので、うまくいっていないということはわかりました。

それについていろいろコメントをもらうのですが、背後の理屈や、ミーティングの全体をつかめないなかでは、いったい自分がなにに躓いているのかもわからない状態でした。

その時期は自分としても非常に苦しい時期だったと記憶しています。

いま年月を経て、自分が「教え、伝える」側になってわかるのですが、おそらくこの時期は教え、伝える側の人たち(りんごの木の先輩たち)も、どのように教え伝えたらいいのかわからなかったに違いありません。

「ミーティング、むずかしい…」とある時つぶやくと、柴田愛子さんからすかさず「なにがわからないか、そのわからないというのをもう少し明瞭にしてみなさいよ」と言われました。

教え伝える側としても、ただ「むずかしい」と言われても、わからないことの具体がなければアドバイスしようもない、ということだったのでしょう。

一方私はなにがわからないかもわからない状態に陥っていました。
そんな状態がおよそ2年は続いたと思います。

ちょうどその頃は、保育者としても転機が訪れていました。
それまでの7年間も自分としては紆余曲折、いろいろ必死に取り組んではいたのですが、その経験というものがまるで通用しないと感じていました。

それはりんごの木という、これまでとは異なる保育の場に入ったからというよりも、むしろ、自分の実践への自信のなさからでした。

技術的な面でいくら保育をある程度「うまく」できたとしても、そんなことはまるで通用もせず、また自分の支えにもなりませんでした。

りんごの木で聞かれるのはシンプルで「あなたはどう思うの?どう感じるの?」という、ただそれだけでした。

その頃の私は、保育の場に保育者としての自分を持ち出すということがまるでできていなかった、さらにいえば、持ち出すような自分がまるでなかったのです。

ミーティングについても問題は通底していて、ミーティングが「わからない」というときに、ミーティングの趣旨や技法などが「わからない」というよりも、ミーティングという場に持ち出せる保育者としての本音がない、ということがいちばんの問題だったのです。

ミーティングに限らず、保育の正解というものがどこかにあるのだろうと探しあぐねるばかりで、自分のなかからなにかを持ち出そうとか、自分のなかからなにかほんとうのものをつくりあげようという気持ちがなかったのです。

これはいまあの時の自分を振り返って思うことです。その当時はこんなふうに自分を見つめることもできず、ただただ苦しい、必死な毎日でした。

さて、人間、底というものがあります。
私は底を打ちました。あるとき、唐突に、はっきりとそう感じました。ああ、おれはもう底を打ったな、と。同時に、もう開き直るしかないなと思いました。

開き直ると、腹を立てる元気もでてきました。いったいぜんたい、なんだって、こうも毎日言われっぱなしなのか。全員、打ちのめしてやる。どうやってうちのめしてやろうか。実践者としては実践で返すしかない。ぜったいにミーティングを掴んでやるぞ。でもどうやったら、もっと明確に問うことができ、相手も答えてくれるんだろう。自分にいったい何ができるのだろう。

ここまで思いいたると、その次はすぐに思いつきました。
そうだ、おれは本なら書けるかもしれない。本を書くということを口実に、いろいろ問いをたて、聞きまくってやろう。ぜったいにこのままじゃ終わらないぞ。

それで私はミーティングの本を書くという構想を、誰にも相談せず、ひとりで練り始めました。

こんなふうに振り返ると、なんとも暗い人間で少ない友達がさらに減りそうで嫌なのですが、このときはふつふつと湧き上がる黒い?情熱に、独り言を言いながらにやにや笑っていた気がします。
ぜったいに自分にはできるという確信めいたものすらありました。
なぜなら私は2年もかけて底を打って、あとは反転するだけだったからです。

次回は、りんごの木の人たちとどのように本をつくっていったかをお話します。本になるまでもまた一筋縄にはいきませんでした。

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