わたしたちのナラティブツリー05〜他者の声を声に出して読む。
先週金曜日に行った「青山誠が語る わたしたちのナラティブツリー」。
金曜の夜に、一人でひっそりとラジオみたいにやれたらいいなと思って企画してみた。
思いの外たくさんの方が申し込んでくれたからか、どうにもzoomウェビナーで、画面の向こうに人を感じながら語りかけるのが慣れないからか、最初のうちは自分でも上ずってるなぁ、という感じ。
思えば、ナラティブツリーについて、きちんと主題にして語るのは初めてだった。
ミーティングもそうだが、ナラティブも私たちの臨床の中にある。それは「いい/悪い」をそんなに簡単にどちらかに寄せられない。
臨床は常に揺らぐからである。むずかしいこと、曖昧なこと、境界線上にあること、臨界点を迎えること、それら全てを含んで、私たちのナラティブはある。
調節というものがあり、技があり、塩梅があり、その都度に孕んでしまう時間がある。
ナラティブがケアであり、呪いでもあるかもしれない、というのは臨床にとっての、そのような当たり前の風景を言っているに過ぎないのかもしれない。
前段が長くなったけれど、今回初めてナラティブを声に出して読む、という試みをしてみてわかったのは、今までナラティブの半分しかわかっていなかったかもしれない、ということだった。
ナラティブとは、語りとか、その人の生の声みたいな意味合いをもともと持っている。それなのに私たちは今まで「黙読」ということでしか、それに触れていなかった。
それはどこまでいっても、文字を視覚的に把握するということだし、文章を意味内容として理解するということだ。
金曜の夜に、一人でひっそりと(この「一人でひっそりと」感を今回読む時には大事にしてみた)同僚たちのナラティブを声に出して読んでみて、あらためてその人のナラティブが立体的に立ち上がってくるような気配を感じた。
ああ。わかってなかったな。
それは意味内容として把握していないということではなくて、ナラティブはやはり声なのだということを掴みきれていなかったということ。声に出して朗読してはじめて、ナラティブが生きて働いていく様が私には聞こえてきた。
それはどういうことか。
私は、他者が書いたナラティブを声に出して読んでいく。
読みながら、その他者が見た風景を声でなぞっていく。
それは私が生きた時間ではないのに、声でなぞるうちにその時間が私の声によって立ち上がってくる。ふたたび、また新たに。
声はいつしか風景そのものと不可分になっていく。読んでいる私の中では、そのナラティブを書いたその人がそこにいるという他者性(自分とはくっきりと違うその人がいるということ)と、自分の声が溶け合っていくさまが、二つながらに同時にある。そのふしぎ。
今年度は上町園内勉強会で毎回ナラティブを読む。他者によって読まれる自分のナラティブを、私たちはどのように聞くのだろう。
そこにナラティブ本来の可能性が立ち上がってくることを静かに期待している。
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