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8月6日に。保育は戦争に反対している。

8月6日。

最近、沈黙ということについても考えさせられます。

黙ってはいけない。

でも、また別の面で言えば、やはり沈黙のうちに祈るということもとても大事なことではないのかなと。

Xで、見知らぬ編集者さんが、ご飯を食べ、ゴミを出し、一人で黙祷した。と。こういう特に何もない日常を暮らしながら、その中に祈りがある。

文学も保育も自分にとっては、圧倒的に沈黙の領域にあるものの方が多いように感じます。

子どもとじっと何かを見る、子どもとの間を測る、子どもと何かを食べる。

ぎりぎりまで沈黙に耐えて、それを切り裂くように言葉が出てくる。それは叫びに近いものなのだと思います。

保育がたいしたものではない、と言われればそれはそうかもしれない。

でも私はたいしたものだと思う。

子どもたちの1秒1秒がこんなにも長いということを、誰が実際に感じているだろうか。

どの人の中にも、子どもの時間はあって、息づいている。その1秒1秒の膨大な積み重ねがあり、その1秒1秒に隣あわせた他者がきっといる。

それを思うとき、命を奪うなんてことがどれだけ途方もないことか。

保育はその営みにおいて、戦争に反対している。それは理知的な反対ではない。
ある意味においては、感情的な反対ではない。時間と他者の重みを直に知っているからこその反対。

黙祷。でも、私たちの日々の保育の営みにそれはすでにあるはず。

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