カウスティネン民俗音楽祭について④現在までの経緯

上記のような立役者たちの功績に後押しされ、1968年7月、第一回カウスティネン民俗音楽祭は開催された。総責任者は民族音楽学者エリッキ・アラ=クニ博士。第一回フェスティヴァルは7月18日から21日にかけて4日間行われたが、そこで特筆すべきは、大勢のペリマンニたちによる行進が行われたことである。(資料29~資料29-2)サウリ・ケンタラSauri Kentala教師によって計画され、彼の兄弟のアーロ・ケンタラAaro Kentala(A.D.1920~1990)、イルマ・リウェルIlma Riwell、トランペット奏者ラウリ・オヤラRauri Ojala(A.D.1918~)によって指揮された。伝統的な、ペリマンニの伴奏による結婚式典の行進を、明確な形で再びフィンランドの人々の前に提示したのである。第一回フェスティヴァルのプログラムであった民俗音楽の演奏会、夜通し行われるダンス、日曜礼拝、パレードなどは現在でも継続されている。
4日間で20,000人の聴衆を集め、大成功した第一回カウスティネン民俗音楽祭(資料30~資料30-2)の後、フィンランド民俗音楽は劇的な動きを見せた。


回数を重ねるに従って、聴衆は次第に巨大な数になっていった。1969年第二回フェスティヴァルには40,000人が訪れ、翌年にはさらに10,000人増加、1971年第四回フェスティヴァルには、4日から一週間に伸ばした会期中、約70,000人の聴衆がカウスティネンを訪れるようになっていた。フェスティヴァルの核心はペリマンニ音楽であったが、「民俗音楽」という言葉は、学問的な範囲をあえて無視し、ブルーグラスやフィンランド・タンゴ、古い労働歌なども包括した。このカウスティネン民俗音楽祭が、赤ん坊から老人まで、幅広い聴衆を対象としていたためである。


1930年まで、ペリマンニは個々に、自分たちが所属する村のためにしか演奏せず、演奏家たちも、違う村の演奏家との間に交流はほとんどなかった。しかし、カウスティネン民俗音楽祭が実施され、各地から訪れたペリマンニたちが一堂に集まったのをきっかけに、1968年、フィンランド・ペリマンニ協会The Finnish Pelimanni Association(現在のフィンランド民俗音楽協会Suomenkansanmusiikkiliitto)が発足した。


この結果、各地の曲目や演奏スタイル、または、民族衣装の様式などが研究され、演奏、楽器製作、民族衣装製作など様々な分野で後進の育成が行われた。家庭内での伝達から、組織による教育、学習へ、という脈絡の変化が起きたわけである。各地にいた老齢の名手たちにも焦点が当てられ、「メスタリペリマンニMestaripelimanni」の称号が贈られた。ヴァイオリンやハルモニウム、アコーディオン、歌など、各分野に秀でたメスタリペリマンニたちはすでに50人以上になり、それぞれ弟子を取ったり、独自の教育の場を設けたりしている。


1974年には民俗音楽研究所Kansanmusiiki-instituuttiが設立され、フィンランドの民俗音楽の研究と保存、新生を目指し始めた。初代所長に就任した音楽家・音楽教授のヘイッキ・ライティネンHeikki Laitinen(A.D.1943~)は、民俗音楽を、保存するための存在としてだけではなく、創造的な活動への触媒の一つとして捉えるべきだとの考え方を明らかにした。この考え方の下、民俗音楽とポピュラー音楽の融合が積極的に始められた。つまり、民俗音楽は、自身常に変容を続けると同時に、それと接触する様々な文化を変容させるダイナミズムを持ったものとして考えられるようになったのである。


1984年、フィンランド唯一の音楽大学院であるシベリウス・アカデミーSibelius-Akatemiaに民俗音楽学部Kansanmusiikin Osastoが設立され、フィンランド民俗音楽の保存と他の音楽文化との融合による「新しい音楽」の創造に向けて教育が開始された。


1986年、民俗音楽バンドとして、初めて国から給金を得ることになった民俗音楽アンサンブル・タッラリTallari(資料31)が結成され、87年には民俗音楽研究所内に民俗楽器博物館museoが開設、次いで1994年、民族音楽学者エリッキ・アラ=クニ教授の指導のもとアラ・クニ大学Ala-Könni opistoが設立され、1997年には民俗音楽研究所は、音楽を超えて、民俗文化そのものを扱うフォーク・アーツ・センターKaustisen Kansantaiteen Keskusとして再出発した。カウスティネンは、名実共にフィンランド民俗音楽の中心地となったのである。

(了)

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