カウスティネン民俗音楽祭について③民俗音楽復興の立役者たち

さて、ポピュラー音楽が台頭してきた中で、民俗音楽の位置は微妙であった。ペリマンニ音楽は、19世紀にはすでに東部フィンランドにおいても一般的であり、結婚式とも結びついていたため、人々の間から消えるものではなかった。しかし、ポピュラー音楽の台頭によって、ペリマンニの家系の者ですら、それらの音楽家として、あるいはクラシックの音楽家としての道を歩んだ。


フィンランド民俗音楽は、ポピュラー音楽などの影響を受けて変化し、場所によっては、完全にその場所を譲った。


こうした流れの中、オットー・アンデルスソーンOtto Andersson (A.D.1879-1969)(資料17)と、彼が率いるブラゲ「Brage」(A.D.1906~)という組織が、ポピュラー音楽の影響を受ける以前の民俗音楽を復活させることにおいて特筆すべき業績を残した。オットーは、特にスウェーデン系フィンランド人の間で、音楽文化を含む民俗文化一般に関する研究を行った。彼は、古い結婚式を再現するにあたって、結婚式と結びついたダンス、そしてダンス音楽を演奏するペリマンニたちに注目した。研究の結果、古い曲やダンスのレパートリーが思い起こされ、彼が設立した野外博物館(現在もヴァーサ市にある)で表演された。また、民族音楽学者エリッキ・アラ=クニErkki Ala-Könni(A.D.1911-1996)(資料18)は西部フィンランドの民俗歌唱やフィンランド・ジプシーの音楽、ペリマンニ音楽に関する研究を行っている。アラ=クニとペリマンニたちの結びつきは緊密であった。それまで全く注目されていなかった演奏家たちが、彼の調査を通じて日の光を浴びることもまれではなかった。特に、後にペリマンニ音楽復興のアイドルとなるコンスタ・ユルヘKonsta Jylhä(A.D.1910~84)(資料19)に対する調査は、コンスタが世に出るきっかけを作った。


これらの研究の成果として、ペリマンニ音楽は1920年代、30年代と活発になり、40年代に入ると、西部フィンランドのオストロボスニアや中央フィンランド、サタクンタSatakuntaやヘメなどの大都市を中心に、各地でペリマンニ音楽のコンペティションが開催された。


しかし当時フィンランドでは、農村部の過疎化が始まりつつある時であった。1917年の独立直後の内戦に始まり、第一次世界大戦、冬戦争(A.D.1939~40)、継続戦争(A.D.1941~44)(注22)と四度の戦争を切り抜けたフィンランドは、工業化に向けて足並みをそろえつつあった。民俗音楽に興味を示す人々がいる一方、多くの村民が田舎の家を捨て、職を求めて都市へと流出していった。


1950年代頃からマスメディアによって、「農村への回帰」が喧伝されるようになると音楽のみならず、民俗文化への関心が戻ってきた。民俗舞踊や民俗吹奏楽器は熱心なアマチュアによって演奏され、民俗音楽を表演する様々な形式のフェスティヴァルが企画され、その規模は徐々に大きくなっていった。


こうした経緯を受けて、第一回カウスティネン民俗音楽祭は実施された。提唱したのは、マッティ・パロMatti Palo博士。1967年3月の新聞紙上で彼は、ウェールズの国際民俗音楽祭を手本とし、毎年、国際的な民俗音楽祭をカウスティネンで行うことを提案したのである。


このフェスティヴァルは、フィンランド民俗音楽全体の祭ではあったが、前面に出ていたのは明らかにペリマンニ音楽であり、コンスタ・ユルヘKonsta Jylhä(A.D.1910~84)と彼のバンド、プルップリペリマニットPurppuripelimannit(資料20)の演奏であった。


コンスタ・ユルヘは、カウスティネンに六家族あるペリマンニの家系の一つ、ユルヘ家に生まれたヴァイオリン・オルガン奏者、そして作曲家である。


 カウスティネンには、コンスタが生まれてまもなくサンテリのカフェが出来、多くのペリマンニが集っていたが、コンスタの母親(資料21)はこのサンテリのカフェの従業員であり、同時にペリマンニだった。幼い日のコンスタはこのカフェで多くの時間を過ごし、オルガンを演奏し始めてからは、カフェを訪れるペリマンニたちから、ペリマンニのレパートリーを習ったと言われている。1930年にフィンランド軍に従軍(資料22)、退役し、帰郷してからは木材運搬トラックのドライバー(資料23)としての職についたが、同時にヴァイオリンを演奏し始め、ペリマンニとして活躍するようになった。当時すでに高名であったペリマンニ、フリィーティ・オヤラFriiti Ojala(A.D.1892~1951)(資料24)やマッティ・ハウダンマーMatti Haudanmaa(A.D.1858~1936)(資料25)との共演もこの時すでに果たしており、そのことは作曲面、演奏面両方で彼に大きな影響を与えたという。


コンスタ・ユルヘが後に所属し、共に全国的な名声を集めることになるバンド、カウスティネン・プルップリペリマニットが、当時カウスティネンと隣村ヴェテリの中で最高といわれた教会オルガン奏者エーロ・トルステン・ポラスEero Torsten Polas(A.D.1919~)(資料26)によって設立されたのは、第二次世界大戦後すぐの1946年のことだった。1950年代、コンスタ・ユルヘがバンドに参加してからは、当初10名程度であったメンバーは、ヴァイオリン二挺とハルモニウム、コントラバスの編成に整備され、それが後に、ペリマンニ・バンドの基本構成としてみなされるようにもなる。


1950年代、民族音楽学者エリッキ・アラ=クニ博士の紹介で、プルップリペリマニットはラジオ番組に出演し、その時演奏した、カウスティネンの民謡「結婚ワルツ」と「ヒントリーキの葬送行進曲」が人気歌手に歌われ、その年のレコードセールスチャートのトップを占めたことで、プルップリペリマニットは一躍全国的な名声を得た。


1963年は、プルップリペリマニットにとって転機だった。多くのラジオやテレビに出演し、数多くの録音を残した。コンスタが出版したレコード、コンスタン・パルハートKonstan Parhaat Ⅰはその年のフィンランド・ゴールドディスク賞を受賞した。(資料27)コンスタの名は、当時すでに民俗音楽の世界ではアイドル的に扱われていたが、フィンランド全国民の間で、コンスタの人となりが「理想のフィンランド人男性像」としてもてはやされるようになった。


しかしその一方で、1958年に当時の中核メンバーであったエリアス・ケンタラEljas Kentala(A.D.1909~1958) (資料28)を亡くし、1964年には、コンスタが不慮の事故で重傷を負ってトラックドライバーとしての職を失うなど、不幸が続いた。


この事故の後、コンスタは教会音楽に傾倒し、自分の曲を作り始めた。生涯に150曲を数えるダンス音楽と、聖歌を作曲し、1984年に没すると、国葬で送られている。

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