Appendix II

拙著が提示した「エックハルト問題」について補足しておく。

拙著は、先行研究の多くが言及しなかった「エックハルトのきわめて過激な言葉」をエックハルト問題と呼んで、その解明を主題としたわけだが、どうしてそれらをそう呼ぶのか、そう呼べるのかを、ここに明らかにしておく。この問題設定そのものを拒絶する研究者もいるだろうし、事実、それを問題にしない研究者の方が多かったからである。

エックハルトは、「魂は、神が自らの上にいることにすら耐えられない」、「知性は、与えることもしない(=不動の)神がどこから来たのかを知ろうとする」、「存在は神の前庭であり、その宮は知性である」、「神の根底は私の根底、私の根底は神の根底」といった表現をするわけだが、これらは、彼に先行する思想家たちが決して語らなかった言葉である。つまりその表現の過激さにおいて比類なきものと言って良い。ところが従来の研究は、これらについて言及するとき、「神が来るそこから」即ち「神の根底」を「無相の神」と解釈することで満足してきた。しかしそうした解釈では、「存在は神の前庭である」という言葉を説明することが出来ない。無相の神(神の宮=知性)が「存在」よりも根源的であると言えるのはなぜか。さらには「無相の神」が、なぜ「神が来るそこから」つまり「神の出所」となるのか。そもそも一般的に言って神はそれ自身が無相なのであり、エックハルトは、その無相の神がどこから来るのか、を問題にしているからである。

拙著でも簡単に触れておいたが、ここに見られる「存在」をすべて「有相の存在」つまり「被造物に対する神」とみなすことで、問題は解けるようにも見える。しかしそうした解釈は、エックハルトの言葉をねじ曲げている。確かにエックハルトは、「ペルソナとしての神」と「神の根底」もしくは「神性」を対比的に論じることが多い。前者を有相の神、後者を無相の神と整理すれば、この区別を論じたことになるようにも「見える」。しかし「魂は神が自らの上にあることにすら耐えられない」という表現がいわんとするのは、明らかに「魂は、いかなるものも自らの上にあることが耐えられない」ということである。「その先は絶対に何もないそれ」という、真の究極を問題にしているはずである。では、無相の神は、その究極なのか。無相とは、それを限定するものがないということである。しかし無相であれば、それが究極だと言えるのか。ここに問題がある。

無相、あるいは、端的に「無」という表現は、便利な言葉である。それを使えば、もう究極、限界に到達したかのような気になってしまうからである。残念ながら、従来の哲学は、この便利さに寄りかかって、根本の問題から目をそらしてきた。「無」という表現は、ジョーカーのように使われてきたのである。例えば二十世紀でもハイデガーや西田が、こうした表現を用いて、「深遠な思想」と見なされてきた。それが深遠な思想と見なされるのは、研究者たちが、その「無」を真剣に問題にしないからである。西田やハイデガーのような偉大な思想家たちが用いる「無」なのだから、それは究極的な何かである「はず」だ、と解しているのである。そう、それは単なる思い込みであって、それが本当に究極的な何かであることは、誰も確かめていない。実のところ、西田やハイデガーもそこを確かめた上で、無と語っているのではない。せいぜいが、その無は、彼ら自身の議論の限界を意味するに過ぎない。つまり、その無が、本当に「究極の無」なのかどうかを、彼らは語っていないのである。西田に至っては、「絶対無」という表現を使っておきながら、そうなのである。

無相、つまり「形なきもの」は、多様な意味を持ちうる。現代哲学はまったく無視するだろうが、古代・中世では、形なきものとは「質料」それも「第一質料」materia prima である。形相を持たない質料は、当然形がないからである。こうした形なき第一質料が、形相を受け取ることによって「モノ」となる。モノとして存在するに至る。そこから、形相が「存在の原理」だとされるのだ。

西田やハイデガーは、こういった議論を知っているはずなのに、それ自身を表立って問題にしているようには見えない。

実はエックハルト研究でも、このトピックは話題になったことがある。著名なエックハルト研究者である K.Albert が、そのエックハルト書の中で、当時の東ドイツの研究者が、エックハルトの言う「神の根底」を質料と解する解釈を提示していると報告しているからである。私はこの東ドイツの研究者の著作は未見であるが、そういった議論が出てくるゆえんは十分理解できる(と言っても、それに賛同するわけでもない)。無相ということ「だけ」を言うなら、質料がそれだというのは、間違いではないからである。

形なきものが最初にあって、それが形を取って、具体的な存在者になる。こういう構図を考えるなら、原初にあるのは「形なきもの」「無」である。だが、こうした無は、西田の言う無でもなければ、ハイデガーの無でもないだろう。彼らは自らを唯物論者だとは絶対に認めないからである。

この例でも顕著であるが、何度も繰り返してきた通り、「無」は多義的である。無相と言えば、それで問題が解決したように思うのは、怠慢以外のなにものでもないが、実のところ、ほぼ例外なく、そこで話は終わる。無は語れない、で終わるのである。

「無が、究極概念である」と言うだけなら、エックハルトは、彼以外の多くの思想家と同類であり、彼の思想に、本当にオリジナルなものを見出すことは出来ない。だが、上述した通り、彼は、彼に先行する人々が決して口にしなかった言葉を口にしたのである。それを、「従来の思想を彼独自の言葉で言い換えたのだ」と捉えるか、それとも、そうした言葉で「従来の思想に収まらない何かを語ろうとした」と捉えるのか。

可能性としてはどちらもありうる。しかし後者の可能性を度外視することだけは許されない。拙著は、エックハルトの思想には、文字通り「他に類を見ない」考えが見いだせる、と主張している。従って、それを批判するには、こういった解釈が不可能であることを明らかにしてもらう必要がある。

ある思想が、同種の思想をいくつも持つものであるか、それとも本当に比類なきものであるか。後者の可能性が指摘できるなら、両者を同等に扱うのはおかしなことではないか?





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