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哲学、ここだけの話(「中立」って何?)

芸術やスポーツを政治と一緒に語るな、ということを言う人たちがいます。それらは政治とは関係がなく、中立だというのです。教育についても政治的中立が大事だと言われたりします。これらは、どれも、政治という「厄介なしがらみ」からそれらを切り離して、「純粋無垢なもの」というイメージを確保したいという気持ちから言われているように思われます。

少なくとも近代社会において、教育は国家の根幹です。土台と言っても良い。それは、何も分からない子供に対して行われるわけですから、どうしても一種の強制、押しつけになる。この時点ですでに、「無色透明の教育」などというものはない。

近年、あちこちの自治体で「憲法を守れという集会は、一つの政治的立場だから、公民館は使わせない」といった判断が下されて問題となっていました。これも公共施設の中立性を考えたことの結果でしょうが、こうした判断がデタラメであることは明白です。なぜなら「憲法を守れ」ということが一つの政治的立場として排除されるなら、学校教育で「憲法は守りましょう」と教えることも許されないからです。上記の判断を下す自治体が「うちの小中学校では、憲法を守れと教えてはいけない」と言うのなら筋は通っていますが、さすがにそんな自治体は聞いたことがありません。そもそも、そんな自治体があったら、それ自体、憲法違反です(憲法は、何よりも為政者、行政に遵守義務がある)。

つまり「中立」という言葉には、すでに政治色がついている。「憲法を守れ」という言葉の裏には、「憲法を守る必要がないと言ってはいけない」ということがある。もちろん「憲法は守る必要がない」と主張することは自由です(本当は自由かどうかは微妙です)が、公的な立場としてはそれは許されない。

ところが公的な立場にある人々の中に、「こんな憲法は守る必要がない」と考える人たちがいて、それを口に出したり、「憲法を守れというのは、中立性をおかすことだ」と言ったりする。その結果が、上記の判断につながるわけです。もちろん、上記のような判断を下す公的施設の管理者すべてが、「こんな憲法はおかしい」と思っているわけではないでしょう。ただ、「憲法を守れというのも一つの立場だ」と言ってクレームをつける人たちに反論できないから、結局、デタラメな中立性解釈に従うのです(分かっていても抵抗できないことが多々あるでしょうが)。

つまり、問題になっている「中立性」という言葉の意味を誰も踏まえていないということです。

国家が教育を司るのは(国費を投入するのは)、国民を教育することが、国家にとって意味があるからです。つまり公的な教育には目的がある。そして民主主義社会である限り、その目的は、私たち自身が設定した目的であるはずです。現今の憲法は、人権思想を土台とした民主主義の実現を目的としています。そういう意味でも、憲法の次に大事な教育基本法は、こうした教育の目的を意識する上でこの上なく重要な法律となります(それが、反対の声が上がる中で変えられてしまいました)。

私たちの社会は、民主主義を是とする社会ですから、これはすべての前提です。民主主義が大事だから、民主主義を脅かすような考えを「公教育は」子供に押しつけてはいけない。「近代の」民主主義とは、一人一人の権利を尊重するという考えですから、こうした人権を脅かすような考え方は許さない(ここが古代の民主主義との決定的な違いです)。国家は、一人一人の生き方を決めたりはしない。各人は、自分の生き方を自分で決めるべきであり、教育はそこに口出しをしない。それが、教育は中立であるべき、の本来の意味です。本来の意味のはずです。

これは、根本的には、近代社会の「他者危害の原則(他者に危害を加えない限り何をしても良い)」の帰結です。近代民主主義の根幹である人権思想は、「一人一人の人間が、他者から傷つけられてはいけない」と考えるわけですが、これは裏を返せば、「人権を侵害するような主張は許されない」ということです。そういう縛りが、この社会にはあるということです。縛りと書きましたが、それは、「人権を守ろう」と考える人からすれば縛りではありません。それを束縛だと考えるのは、「人権を守る」ことに反対したい人たちです。

もちろんこうした民主主義には、矛盾も生じます。なぜなら思想信条の自由を尊重する限り、「人権思想は間違いだ」「民主主義を選ばない」と主張する自由も認めないといけないからです。こうしたことの、悪夢のような具体化がナチスです。民主主義の名の下に、人々がヒトラーという人物に独裁者であることを許したのです(許した、のではなく、それを熱望した)。

最近では、アラブ社会で同じようなことが起きました。独裁政治から解放されたアラブ諸国で、民主的な選挙が行われた結果、イスラム回帰現象が起こったのです。人々が、イスラム政治を望んだ結果、多くの国でイスラム型の政治が行われるようになりました。イスラム的な価値観は、欧米流の「他人を傷つけない限り何をしても良い」という自由を尊重しないので、結果的に、欧米が望むような社会の実現には至らなかったのです。

つまり民主主義は、自らを破壊する、もしくは破壊しかねない思想を許容するということです。人権を守る思想が、人権を破壊する思想を許容すると言っても良い。だから多くの国の憲法もしくは法律には、「思想信条の自由は大切だが、人権を侵害するような政党(グループ)の存在は許容しない」といった制約が書き込まれているのです。

こういう「意味」も考えずに「人権を強調するのも一つの偏った立場だ」と言うなら、はっきりと「私は近代民主主義を否定する」と言うべきです。そして日本を非民主的な社会にするよう働きかければ良い。

私は、講義中、よく「民主主義を脅かす政治家の言動」を批判します。もちろんその際、そうした政治家、もしくは政党名を出して批判します。すると学生の中に「もっと中立的であるべきだ」と言う学生が出てきます。「中立」という言葉だけを知っていて、その意味を理解していないがゆえの発言ですが、大の大人達ですら、ろくに中立の意味を考えてもいない社会では、こうした発言が生まれるのも「自然なこと」なのでしょう。

スポーツや芸術が、少なからず国家の後ろ盾を必要とすることは、周知の事実です。問題は、国家がそれに金を出すのはなぜかということです。この時点で、それらのスポーツや芸術は政治的存在です。では、なぜ人々は、これらに非政治性を求めるのか。答えはいつもと同じく簡単です。自分が好きなスポーツ選手が政治的発言をして、自分を不快にして欲しくないからです。大ファンの歌手が自分とは異なる政治的見解を口にするのを見たくないからです。スポーツや芸術の政治性を認めると、こういったリスクが生じる。だから芸術家やスポーツ選手には、政治的発言はしないで欲しい。

つまり日本人の多くが求める「中立」とは、多くの場合、自分を不快にするかも知れないものを禁止したいという欲望の発露に過ぎない。「中立性」という、一見、まともな言葉を使いながら、実のところ「私を不快にするな」という欲望の発露でしかない。

どうして中立であることが求められるのか。そうした「そもそも論」が、日本人は苦手です。原理原則を論じることが苦手。目の前の問題だけを見て、感覚的に反応するだけで、一般論が語れない。原理原則を立てる能力を知性と呼びますが、日本人は、知性は科学するための能力だと勘違いしています。法律というのは、原理原則ですから、法律を作るのも知性の仕事です。かくして結局、いつも同じ結論に至ります。

日本人は知性を知らない。知性を学ばない。知性を鍛えない。

<もちろん、ここに書いていることは、芸術やスポーツをすべて政治問題に巻きこめと言っているのではありません!>




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