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哲学、ここだけの話(ギリシア哲学史家)

以前、山田晶という哲学史家について書きました。おそらく「少々哲学に興味がある」というくらいの人たちには縁がない研究者で、まさにプロ中のプロといってよい学者です(ただ、彼にも『アウグスティヌス講話』という一般向けの名著があります)。

同じように、日本の哲学の歴史において、とても重要な仕事をした学者に、田中美知太郎という古代哲学の専門家がいます。学者としての重要性ということでは、山田晶どころではない、最高グレードの学者です。

日本の古代哲学研究というのは、間違いなく世界レベルですが、たった一人でそのレベルへと引き上げたのが、田中だと言っても過言ではない。彼のすごいところは、ソクラテスやプラトンを中心に研究しただけあって、社会や教育への目配りがとてもよくできているということです。最高レベルのアカデミシャンが、同時に一般向けの最高レベルの啓蒙書を書いているのです。

岩波書店から出ている『プラトン全集』は、1974年に初版が刊行されたのですが、それがいまだに現役で再版を繰り返しています。つまり五十年前の翻訳が、いまだに生きているのです。もちろんその時代に訳された翻訳がいまだに使われているというケースは他にもあります。しかし古代研究というのは、文献学的な蓄積がものをいうので、五十年も経てば、古びてしまうのが普通です。つまりその時代に、かなりの精度を誇る翻訳がなされていたということです。

私が、大学時代、古典ギリシア語を習った先生というのが、実は、この全集の訳者の一人でした。もちろん田中門下です。非常勤で、週一回のギリシア語の授業でしたが、とても面倒見の良い先生で、五限目にあったギリシア語授業の後で、熱心な学生を集めて、大学横にあった喫茶店で、学外授業をしてくれたのを今でも鮮明に覚えています(読んだテキストは『ソクラテスの弁明』の原典でした)。とても気さくな先生(当時五十代でした)で、ギリシア語以外にも色々なことを教えてくれたのですが、その中でも最も驚いたのが、田中美知太郎のエピソードでした。

田中は、晩年『プラトン』という大部(四巻本)の著作を書き上げます。それを書いていた当時、すでにほとんど目が見えなくなっていたそうなのですが、執筆は、お弟子さん(と言っても、もちろんすでに教授クラスの人ばかり)が横にいて、口述したものを筆記していくというものだったそうです。『プラトン』という著作を数ページ覗いてみれば分かりますが、最初から最後まで、見事なまでにアカデミックな書物です。プラトン自身からの引用はもちろん、当時の重要なプラトン研究との対決もなされています。

でも、当時の田中は、すでに目が見えないのです。つまり彼は、本が読めません。想像して欲しいのですが、皆さんが、ある思想家についてレポートを書くとして、その思想家の本が読めなかったらどうでしょう。参考書が読めないのに、参考書を引用できますか。

ところが田中の『プラトン』には、プラトンは、どこどこで、これこれということを言っている、という引用が次々と出てきます。つまり田中は、プラトンの著作を、ほとんどすべて暗記していたということです。それだけではない。「誰々という研究者は、これこれという本の、何ページくらいで、これこれということを言っている」ということすら、すらすらと出てきたというのです。横にいたお弟子さんは、田中が「誰々のこれこれという著作の何ページくらいにこういうことが書いてあるはずだから、確認しろ」という指示を受けて、それを確認すると、まさに言われた通りのことが、そこに書かれている。

私は、その話を聞いたとき、「絶対に文献学者にはなれない」と思いました。「絶対に哲学史家にはなれない」と思いました。(これらの話は、当の『プラトン』という著作の冒頭にも書かれています)

ちなみにヨーロッパの神学部では、大学院の入試に、数行の聖書の引用文が渡されて、「これは聖書のどこの部分か」と答えるというものがあるそうです。もちろん手渡される文章は、ヘブライ語(旧約)かギリシア語(新約)ですから、それが読めるのは当たり前ということです。これが、大学院の入試レベル(もちろんハイレベルの神学部の話だそうですが)。こういうハードルを乗り越えた者だけが、専門的な神学を学ぶ資格を手に入れる。あくまでも「学ぶ資格」です。その後、修士論文、博士論文を書いて、ようやく学者の仲間入りをする。ここでも、あくまでも「入り口を入った」だけです。

西田の後継者と目された九鬼周造という哲学者は、とある授業の初めに、黒板の最初から最後まで、何も見ずに、長い長いフランス語の文章を書いたそうです。それは、ある哲学のテキストだったそうですが、彼は、見直すことも、確認することもなかったそうです。扱う原典など覚えていて当たり前、ということなのでしょう。

こういった話を聞いたり、田中のエピソードを聞いたりすると、絶望的になります。私たちがすごいと思うことが、彼らにはまるでどうということもない。もちろんそうです。彼らの本領は、そんなところで発揮されているのではないからです。

ただ、ヘラクレイトスが言ったように「多識は知性を持つことを教えない」。ものをたくさん知っていることがただちに知性があることを意味しない。博学な彼らに比べれば、無知と呼ばれても仕方がない私でも、知性を手に入れることはできる。そう信じて、目の前にある数行のテキストに取り組むだけです。出来の悪い学者には、それなりの戦い方があるのです。

とはいえ、だからこそ、彼らの仕事には心からの敬意を表します。

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