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哲学、ここだけの話(意味からの離脱)

前回、エックハルトについて少し書きました。

彼自身の思索については、掘り下げたことを書かなかったので、思想紹介を期待されていた方には肩すかしに思えたかも知れません。

エックハルトという思想家は、非常に語るのが難しい。
これは、彼の思想の特殊性に由来するのですが、今回はそこを説明しておこうと思います。

エックハルトは、魂における神の子の誕生ということを語る思想家です。つまりは神との一を語るのです。では、それはどういう事態なのか。

私は四十年、エックハルトに付き合ってきました。そしてエックハルトについて語るたびに、人から「神と一つになると言っても、それに何の意味があるのか」と問われてきました。おそらくエックハルトの時代なら「神と一つになる」ことの意味など誰も問わなかったでしょう。当時は、神とは(誰にとっても)最高の存在であり、それと一つになることは、それがどういうものであれ、最高の体験に違いなかったからです。

とはいえ、エックハルト自身は、その合一がどのようなものかを明らかにしていません。彼は、自己を完全に捨てれば、神と一つになるとは言うのですが、それがいかなる体験なのかは語らないのです。

誰もが神を信じているわけでなく、ましてや神を最高の存在とは思っていない現在、「神と一つになる」という表現は、それほど魅力的ではないのも道理です。

もちろん言葉の上では、神は完全な存在であって、それと一つになるということは、何らかの意味で完全になることを意味しているはずです。しかし問題は、それがどういう意味であるのか、でしょう。

私たちは、「完全になる」という表現を聞けば、「死なない、病気にならない、傷つかない」といったことを考えます。では、エックハルトは、そうした状態がもたらされるといっているのでしょうか。しかしエックハルトを読むまでもなく、生身の人間がそういった状態になるなどということは期待できません。もしできるというなら、エックハルトは、今も生きていることでしょう。

もちろんエックハルトに、ある種のエクスタシー(脱我、忘我)を見て取ることもできるでしょう。彼が、自己を喪失しているありようを語っているのは事実だからです。何しろ彼は、とにかく自己を捨てよと言い続けているからです。

しかしそもそも自己とは、すべての意味の核心です。どのような意味であれ、それが私にとっての意味である限り、私を前提としています。となると自己を捨てるということは、一切の意味を断念するということになります。「そんなことに何の意味があるんだ」という声は、「意味の核となる私を放棄して、それにどういう意味があるのだ」といっているわけです。

もちろん多くの宗教が語るように、捨て続ければ、究極の立場において、捨てた一切が戻ってくるという考え方もありますし、実際、それに類した言葉をエックハルトも残しています。しかしそれは、人が期待するようなあり方ではない。すべてを捨てても、実は何も捨てていない。エックハルトの思想は、そういうことを語っているからです。

現代人にも分かるように、エックハルトの言葉を言い換えれば、彼が言わんとするのは、「意味へのこだわりを捨てよ」ということです。私たちが意味へのこだわりを持ち続ける限り、自己の真理、さらには存在の真理、そして究極の真理はあらわにはならない。

言い方を変えれば、

「究極の真理、存在の真理は、意味への関心を超えて屹立している」

ということです。

こうした真理においては、何も失われることがありません。自己の存在そのものが究極の真理そのものであり、そこにおいては何も失われるものがない。しかしまさにそれゆえに、そこに意味があるのか、という問いを、その真理は引き受けません。そうした関心をはねつけたところで、初めてその真理はあらわとなるからです。エックハルトは、自己の放下、さらには神の放下ということすら語りますが、それは究極の「意味の放下」を意味するはずです。彼は離脱ということを語りますが、それもまた「意味からの離脱」と言って良い。

私たちは、意味への執着によって苦しみを自ら生み出している。だからそこから離脱することは、苦しみから離脱することです。しかしそれは、エックハルトにとって一里塚でしかありません。彼の目指すゴールは、意味を完全に脱却した「存在の真理」だからです。このように考えてくると、こうした存在の真理が、意味へのこだわりに対応しないのは当然です。「こういう意味があるよ」といった解答をもたらさないのは当然です。

私たちが日常、求めている類いの意味は、エックハルトにとっての関心事ではありません。それどころか、そういった関心を失うことに、むしろ意味がある。では、後者の意味は、どういう意味か。ここでもやはり私たちは、再び意味への執着を見せてしまいます。

私は、それを「意味を離脱して屹立する真理」と呼びます。この呼び方以外の呼び方を知りません。

「無ではない」とは、一切の意味を離脱して屹立する究極の真理そのものである。

結局のところ、「この真理を自ら知る人だけが、それを理解する」というエックハルトの言葉は真理であり続けています。それに意味があるのかどうかは、それを理解する人だけが理解するのです。

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