時評(マイゴジの台詞)

マイゴジ(ゴジラマイナスワン)に対して「台詞がくどすぎる」といった評価をする人たちがいて、驚いていたんだけれど、YouTubeで岡田斗司夫が語っていることを見ていて、合点がいった。彼らは、状況から見て分かることを言語化する行為に対して、強い抵抗感を感じるわけだ。もちろん映画は映像なわけだから、映像で語れることを一々言語化する必要はない。感情を一々言語化することで、物語の深みがなくなるといったことも十分ありうる。

しかしここで問題なのは、「誰もが」その状況から何かを読み取れるわけではないということだ。それが証拠に、すべての観客が「台詞がくどすぎる」と言っているわけではない。おそらく少なからぬ観客は、そんなこと夢にも思っていないだろう。状況から分かることを一々言語化しているという場面でも、多くの観客は、それを気にしない。なぜかというと、そういう台詞が必要な人が「いる」ことが分かっていて、私たちの日常は、そういった「親切な」言葉にあふれているからだ。

私は、教員という仕事柄、日本人の多くが「分かったつもりになっているだけ」ということがどれだけ多いかを嫌と言うほど知っている。だから「当たり前すぎること」を、くどいほどに繰り返す。

「人権」や「民主主義」さらには「自由」という言葉、(あるいは「私」でも良い)、これらの(みんなが「当たり前だ」と思っている)言葉が持つ意味を、それなりに理解している学生(残念ながら教員も含めて大人も同様)は、ほぼいない。実際、「それはどういう意味?」「人権って何?」と尋ねて、即答する学生は皆無である。もちろん教科書通りに「人が生まれ持っている権利」などと答える学生はいる。「じゃあ、君がそれを持っているという証拠を見せて」と尋ねると、百パーセント沈黙する。百パーセント、である!

おそらくこの点に関しては、国会で「人権人権」と口にしているほとんどの議員たちも同様だろう。人権嫌いの連中に至っては、いわずもがな、である。

かなり極論になるが、欧米の文化というのは、言語化する文化である。人権というものも、「人権」と呼ばれることによって、初めて存在するようになったと言っても過言ではない(まさに perfomative である)。

上の段落の説明を読んで、なるほど、と理解する(特に後半の文章を)読者はそう多くはない。しかし分かる人が読めば、これだけで十分分かる。とはいえ、ここはそういう場ではない。つまりもっと丁寧な、かみ砕いた説明が必要である。だが、そうした説明を「くどい」と思う読者もいるだろう。知っているからだ。では、どうすればよいのか。こうした場で私が無視すべきは、「くどい」と言う批判である。一部に「くどい」と思われても、そんなことは無視して、丁寧に説明すべきなのである。(とは言え、上記の文章は、こういったことが言いたいために書いたので、ここでは一々説明しません。お許しを。興味のある方は、言語哲学の入門書でも読んでみてください。)

同じ事は講義でも言える。どこまで基本的なことを説明するべきなのか。
私の基準は、「普通の中学生でも理解できる」である。当然、大学生なら、「聞いていて苦痛なくらい、分かりきったこと」を聞かされていることになるはずだが、実際は違う。私の講義は、おそらく、東大や京大で行っても、「くどい」とは言われないだろう。どうしてか。日本人には、「本当に基本的なこと」についての理解が行き渡っていないからである。

そもそも日本は、「分かるでしょ」文化である。つまり言語化することを「野暮」と解するわけだ。こうした価値観を持つ国民が、「言語化することに高い価値を見出す」文化を簡単に理解できると「思う」方がどうかしている。私が何度も何度も、「哲学、学問は異文化である」と繰り返し強調するゆえんである。

「台詞が説明過多だ」と批判している人たちが、どういうつもりで、そういうことを語っているのか。私はそれが最初全然分からなかったのだけれども、そう言う人々にとっては、オタク的な世界が世界なのだろう。自分に分かることは、口にしないで欲しい、というわけだ。もちろん、その御仁について言えば、「要らんことしゃべりやがって」ということになるのだろう。しかしそれが「要らんこと」なのは、その人にとってのことであって、その映画を見る観客すべてにとってではない。「この要らんセリフを削れ」と言うのは、「映画を俺向けに作れ」と言っているのだ。

これって、とても恐ろしいことではないのだろうか?

しかし現代日本は、まさにそういった声にあふれている。

ちなみに私は、「オタクが優しくない」と言いたいのではない。オタクは、オタク世界の中でこそオタクでありうる、と言いたいのだ。自分たちが蛸壺の中にいることを自覚しているのであれば、それに何の問題もない。学者が専門用語を使うのと同じと言っても良い。しかしそれが「当たり前だ」と主張し始めると、それは病的であると言って良い。

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