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哲学、ここだけの話(ソクラテスの弁明)

哲学の古典中の古典と言って良いのが『ソクラテスの弁明』です。

プラトンの著作は対話篇と呼ばれるスタイルで書かれていますが、この書は、ほぼソクラテスの言葉だけで綴られています。

未読の方は、とにかく一読を強く勧めます。

とは言え、現代日本に生きる読者は、この作品に描かれているソクラテスに共感を抱くことはないかもしれません。自分に向けられた訴訟に対する自己弁明において、まるで陪審員(当時のアテナイでは一般市民五百人が陪審員を務めていました)の感情を逆撫でするようなことを語っているからです。その結果、彼は死刑判決を受けるのですが、それは人類の歴史において永遠に語り継がれるであろう事件となります。

裁判での弁明というものが、もしも自分の罪を軽くするためのものだとしたら、ソクラテスがここで行なっているのは弁明ではありません。結果的に多くの陪審員の神経を逆撫でにして、死刑を宣告させることになる言葉を自己弁明とは呼びません。

そういう意味では、誰もが、その弁明を愚かなものだと思うでしょう。

ところが、その愚かな弁明が、世界史上の事件として語り継がれている。それは大戦争でもなければ大災害でもない、たった一人の人間の死刑判決に過ぎないのですが、どうしてだか、世界史の教科書に必ず載っている。

どうしてでしょうか。自分の命ほど大切なものはない、という現代人の常識からすれば、真逆と言って良い言動が、世界史で大きく取り上げられていることの意味とは何か。

先日、アッシジのフランシスコについての記事を書きましたが、彼も現代日本の価値観の真逆と言って良い人生を送りました。ところがその彼は、日本人から最も親しみを感じられている。どうしてなのでしょう。

ソクラテスもフランシスコも、皆さんの隣にいれば、偉人に思えたでしょうか。彼らは世界史クラスの偉人なので、その偉大さは誰でもわかるはずだ、と思うでしょうか? よく知られたことですが、ソクラテスもイエスも、人々が死刑を望んで殺されました。彼らが偉大なら、なぜ人々は彼らの死を望んだのか。人々が愚かだったからでしょうか。きっとそうでしょう。そこで人々は思います。彼らを死に追いやった人々は、なんて愚かなんだ、と。

そこで人は、自分ならどうかということを真剣に考えません。ソクラテスやイエスが自分の隣人ならどうか。彼らは、隣人に向けて耳障りの良いことは一言も言いません。それどころか、耳に痛いことしか言わないのです。友達だから肩を持つとか、味方だから褒めるとかいうことはしません。実際にそういう人物がいれば、その人を尊敬するか。

キルケゴールというキリスト教の思想家がいます。ニーチェと並んで実存主義の開祖という扱いの人物ですが、ニーチェ同様、かなりの変わり者です。その彼が面白いことを言っている。彼の時代、彼の国デンマークはキリスト教国で、彼の周りにはキリスト教を熱心に信じる人々で溢れていました。ところが彼は、自分たちがキリストと同じ時代を生きていたら、本当にイエスの言葉を信じただろうかと問います。

想像してください。当時のイエスは、今のように何億という人々に信仰される対象ではなく、むしろ従来とは違った教えを語って街々を巡り、周りに奇妙な弟子たちを従える人物で、当時のユダヤ人社会から疑惑の目で見られていたのです。

充分怪しい。

ちなみに日本人の多くは知りませんが、イエスの教えの中心には、貧富の問題がありました。彼は金持ちは天国に行けないと断言していますが、それは、たまたま語られた付随的なエピソードではないのです。経済的な豊かさを追求するのが当たり前となっている現代に、イエスが現れて、同じことを言えばどうか。

欧米の超弩級の金持ちの多くはクリスチャンでしょうが、彼らの前にイエスが現れて、同じことを説けば、それに従うのでしょうか。

キルケゴールは、そう問うのです。

ソクラテスもイエスもフランシスコも常識的な価値観では測れない生き方をしました。そういう意味では、非常識と言っても良い。ニーチェもキルケゴールも、実際の彼らは、相当に非常識です。にも関わらず、少なくない人々が彼らの著作を読み、それに惹かれている。

惹かれている。魅力を感じている。なぜでしょうか。そもそもニーチェが周りにいれば、彼に強く惹かれ、友情を育めたでしょうか。いや、それ以前に、ニーチェたちがその人物を受け入れたでしょうか。友人としたでしょうか。

イエスの弟子になるということは、一切を捨てて彼に従うということでした。フランシスコは、目の前にイエスがいないのに、全てを捨てて、彼に従う人生を送りました。しかしその彼に惹かれた人々のほとんどは、彼に従わなかったのです。

世の中なんてそういうものだ、と達観する人も多いでしょう。世の常識に妥協するのが大人の行いだと、世間は言います。しかし他方でそういった常識に息が詰まると思っている人も多い。そういう人たちが、ニーチェを読み、フランシスコの人生に思いを馳せる。

では、彼らは、ニーチェたちが望んでいた読者でしょうか。フランシスコは、自分の生き方を遠くから眺めて称賛する人々の声をどう聞くのでしょう?

思想とか哲学は、社会のガス抜きであってはならない。
私にとって最高の哲学者は、ソクラテスです。

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