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哲学、ここだけの話(知性と宗教)

私は、宗教について、しばしば、その意味(信じることのメリット)を強調するけれど、それは「宗教が素晴らしい」ということが言いたいためではない。宗教が、普通の日本人が思っているよりもはるかに、人間を動かす力を持っている,ということを確認しているだけだ。

そういう意味でも、日本人は宗教の力を侮っている。

人々は、多くの戦争が宗教のせいで起こっていると言う。馬鹿げている。戦争の原因は、人間の欲望だ。AというグループとBというグループが争うとき、それぞれが異なるグループであることが肝心なのであって、そのグループにどういう名前がついていようが、実のところ、関係ない。

もちろん、戦争の当事者が、強い宗教的情熱に動かされている場合もある。しかしそこで問題なのは、「人間の」情熱であって、宗教そのものではない。

このように述べると、まるで私が宗教を擁護しているように思えるかもしれない。しかし本当の問題はここからだ。

AというグループとBというグループが、それぞれ宗教的情熱に動かされている場合、その敵対心を消し去るのは非常に難しくなる。そこには、橋渡し不可能な対立が残る。宗教とは、残念ながらそういうものだからだ。

こういうことを書くと、他の宗教を認める宗教もたくさんある、という反論が出てくる。もちろんそうだ(ちなみに日本人には意外なことに、イスラムはそういう宗教である)。

しかしいくら他人の信仰を認めると言っても、個々の信者にとって、自らが信じている宗教こそが真理であるということは動かない。

私が問題にしているのは、そこでそれが「真理」となるということだ。

もちろん、ある人が,ある宗教の教えで救われる、という現実はある。その場合、その人にとっては、その宗教こそが「自らの宗教である」ということになるだろう。その人がその宗教によって救われたことは「真理」だろう。

と思いたくなる。

私が問いたいのは、本当にそうか、ということだ。

その人を救ったのは、「その」宗教なのだろうか。本人は意識していないのだが、「その」宗教は、宗教である限り、様々な教えを持っており、儀礼も持っている。そういうすべてを含んでいるのが「その」宗教である。つまりその一部だけを取り出す(信じる)ことはできないのだ。

私が、京都学派の宗教理解に疑問を抱くのも,まさにこの点にある。西田を初めとする京都学派の宗教理解は、おのおのの宗教が持つ個別的要素,現実的側面を無視している。

宗教が持つ意味を取り出すことは大切だろう。しかし「だから宗教は大切だ」という結論で終わって良いのか。

それは、結局のところ、知性をどう捉えるかという問題でもある。

それが不十分、不完全であっても、自分たちの知性をフルに活かして生きるのか、それとも、それでは不完全だから、完全と称する宗教に最後は身を委ねるのか。

実のところ、近代社会と言っても、世界を動かしているのは後者である。

それは、もちろんキリスト教やイスラムといった宗教の名前で現れることもあるが、最近多いのは、「国家」という名前の宗教である。

人々は、国家が宗教であることをあまりにも知らない。



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